2013年6月23日 (日)

(491)ペンネーム

Photo_2 最近は流行らないようだが昔の作家はペンネームが多い。夏目漱石(金之助)・森鴎外(林太郎)という風に。それぞれ考えがあって名付けられたのであろうが、先日行った旅行の福島にペンネーム『露伴』誕生ゆかりの地・にほんまつ」の掲示板があった。そこには以下のように書かれていた。

第一回文化勲章受章者で、著書『五重塔』などで知られる明治~昭和の代表的な文豪・幸田露伴(本名・成行)は、二十歳になって文学を志し、電信技手として赴任していた北海道余市から上京の旅に出ました。

 明治二十年(1887)九月二十八日の日暮れ近く福島に到着、ここで一泊すると乗車賃が不足する(当時東北本線は郡山まで開通)、夜中歩いて郡山まで行こうと決め出発、飲まず食わずで二本松に来たのは夜半近くでした。

 街は提灯祭り(当時は新暦九月でした)で賑わう中、懐中わびしながらも亀谷坂頂上の阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いたものの、体力・気力もすでに限界でした。 

 道端に倒れ込み、こうもり傘を立て野宿を決意、いつか野たれ死にをする時が来たら、きっとこんな状態だろうと思案し、口をついてでた句が

  「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」

でした。二年後、文壇初登場の時、二本松で露を伴にした一夜が忘れられず、発奮の意味をこめて、この句からペンネームを「露伴」にしたと日記などで後述しています。 

他に「蝸牛」「脱天子」など多数の雅号をもつ露伴でしたが、文学を志した熱き想いと苦難の突貫道中を忘れぬよう、ペンネーム「露伴」を生涯大切にしたと言われています。

北海道余市から徒歩で上京してきたとは凄いことだが、そういう時代だったのだから致し方ない。青雲の志に燃えて歩いてきた青年にとっては、郡山に着けば汽車に乗れるのだから、もう東京に着いたと同じ感慨を抱いていたのではあるまいか。だから草枕で見た夢はきっと明るいものだったに違いない。

2013年6月16日 (日)

(490)旅の終わりに

Photo 「奥の細道を訪ねて」のツアーで抜けていた第6回(6月1日~2日)に参加して全16回の完歩を達成した。昨年の4月にも催行されたので参加する積りでいたのだが、孫8号の出産と重なって行けなくなり、やむなく今回埋め合わせて区切りがついた。写真は主催の旅行社から戴いたものだが、これまでするなら筆ペンでも結構だから、もう少し達筆な方に氏名を書いて貰いたかったし、認定証の発行番号も掲示して欲しかった。この企画は今後も続けてゆくのだろうから、完歩者の累計が増えていくことがPRにも使えると思うのだが如何なものだろうか。記念品として中国製のフォトフレーム電波時計まで頂いて文句を言ってはいけないが、こうしたことを書くユーザーがいるのだから気を付けなければいけない。リピーターを増やすためにも企画部門はしっかりして欲しい。テーマのある旅に参加する人の求めているものを的確につかむべきだ。その点を講師の大橋先生はよく理解されていて私達の知的好奇心を満足させてくれたので評判が良かった

 今回の参加者の内 2名だけ完歩者が混じっていて、夜の食事の時に紹介された。夫々16回参加出来た喜びとお世話になったお礼を述べた後で大橋講師からリクエストがあった。「福井さんは前回の長浜のホテルで素晴らしい歌声を披露して下さいました。そのお歌をまた聴きたいと思うのですがお願いしてよろしいでしょうか。」と。私は「今回卒業致しますが、完歩者として記念品を戴く時に、お世話になった大橋先生が居られないとお礼を申し上げる機会がなくなりますので、感謝の意味を込めて『仰げば尊し』を歌わせて頂きました。幸運にも今回再び大橋先生が講師でしたので今夜が本番になりました。」と言って再び「仰げば尊し」を歌った。

 長浜ロイヤルホテルで私の拙い歌を聴かされた人の中に、稲門グリークラブのソリストも務めているメンバーの奥さんがおられた。翌日の朝「私はグリーのTの妻です。お初にお目にかかりましたがお名前はかねがね承っておりました。」と自己紹介された時は、世の中狭いものだと吃驚した。今回も知り合いの方がおられると困るなと一瞬思ったが一杯機嫌でもあり、またもや歌わせて頂いた。

Photo 旅の最後に立ち寄ったレストラン 翌日の昼食の時大橋先生が私達のところにお見えになって「昨夜福井さんの歌を聴いたお客様が、私達も最後には長浜に行くのだから福井さんに『琵琶湖周航の歌』を是非歌って欲しいとおっしゃるのですが、歌って頂けますでしょうか」と言われる。「歌詞を間違えるといけないから」と私が渋ると、同行の娘が「スマホで調べるから大丈夫よ」と言うので後に引けなくなり、お引き受けしてから「ついでに『惜別の唄』も調べろ」と命令した。「アンコールの準備までするの」と呆れられたが、結果的には「それでは、島崎藤村作詩の『惜別の唄』を歌います」ということになってしまった。安達太良のサービスエリアから郡山までのバスの中の出来事で、16回に及ぶ旅の最後の思い出となった。何れも別れの唄だが「大橋先生から頼まれましたけれど歌ってよろしいのでしょうか?」とことわって歌わせてもらった。歌い終わると先生が「それでは皆さんでこの歌をうたってお別れしましょう」と大きく書いた歌詞カードを掲げ、先生のリードで「今日の日はさようなら」を歌った。Photo_2 加者全員で記念のスナップ 阿津賀志山坊塁付近にて

「琵琶湖周航の歌」 
我は湖(うみ)の子さすらいの 旅にしあればしみじみと のぼる狭霧やさざ波の 滋賀の都よ いざさらば
松は緑に砂白き 雄松が里の乙女子は 赤い椿の森陰に はかない恋に泣くとかや
波のまにまに漂えば 赤い泊火懐かしみ 行方定めぬ波枕 今日は今津か長浜か

「惜別の歌」
遠き別れに堪えかねて この高楼(たかどの)に登るかな 悲しむなかれわが友よ 旅の衣をととのえよ
別れといえば昔より この人の世を常なるを 流るる水を眺むれば 夢はずかしき涙かな
君がさやけき目のいろも 君くれないのくちびるも 君がみどりのくろかみも またいつか見ん この別れ

今日の日はさようなら

いつまでも 絶えることなく友達でいよう
明日の日を夢見て希望の道を

空を飛ぶ 鳥のように自由に生きる
今日の日はさようならまた会う日まで

信じ合う喜びを大切にしよう
今日の日はさようならまた会う日まで また会う日まで

2013年6月 9日 (日)

(489)奥の細道第16回 その三

敦賀から結びの地・大垣まで  5月7日より9日

行程 第3日 長浜ー慶畴寺ー長浜八幡宮ー姉川古戦場ー観音寺ー大垣・結びの地記念館ー円通寺ー名古屋=<ひかり530号18:24>=東京20:10 

 3日目も快晴であった。長浜周辺の寺などに寄ってから姉川の古戦場を眺め、バスは伊吹山の山裾を迂回して関ヶ原へと至る戦国時代の歴史舞台を走った。芭蕉もこのルートを馬に揺られて旅をしているらしいが本文には記述がなく、敦賀のあとは大垣になり、「奥の細道」を結んでいる。だが私は少し往時に想いを巡らせてみたい。

Photo_3 まず昨日訪ねた金ヶ崎城に話を戻すと、両端を縛った袋に入れられた小豆が織田軍であるとの暗示に、浅井の離反に気付いた信長は直ぐに全軍を退却させたのだが、この時 本隊が無事退却出来るまで敵の追尾を防ぐ困難な役目の殿(しんがり)軍を明智光秀とともに務めた木下藤吉郎のちの秀吉は未だ33歳で、やっと部将にとりたてられたばかりの頃であった。この時秀吉は徳川家康の軍に助けられている。その2か月後 浅井朝倉連合軍約1万8千人と織田徳川連合軍約2万8千人が姉川をはさんで対峙した。

 史上稀に見る激戦で姉川は朱に染まったという。戦いは初め浅井側有利に進んだがやがて逆転し、浅井朝倉連合軍は小谷城に敗走した。姉川に架かる橋のたもとに「姉川古戦場跡」の大きな看板が立っていて、その傍に記念碑や説明板が立っていた。その後 天正元年(1573)8月浅井氏は小谷城において滅んだ。その年秀吉36歳、長浜城主となっている。

Photo 琵琶湖に沿って走ってきたバスがトンネルを抜けて小さな寺の前に停まった。観音寺である。ここで石田三成が登場する。こんな所の寺の小坊主が、天下分け目の関ヶ原を演出するようになろうとは、本人も夢想していなかったであろう。人生は判らないものだ。寺の門に「三献茶の里」と書いてあった。庭に「石田三成 水汲みの井戸」もあった。そこに書かれてあった故事を要約すると
「ある日 秀吉が鷹狩に出て喉が渇き、観音寺に立ち寄りお茶を所望したところ、住職に代わって三成が茶をたて、ぬるめの茶を大椀にたっぷりと出した。一気に飲み干した秀吉がお代わりをすると、今度は少し熱く濃いめのお茶となった。秀吉は3杯目も美味しく頂いて、このような気配りができる者を近習に迎えたいと召し抱えた」 そうだ。

 だが、三成は1577年頃父兄とともに仕官したと記録にあるので、広く流布されたこの話は三成の頭の良さを物語るための作り話かも知れない。子供の頃から私達兄弟は講談好きの祖父から、こうしたお話をよく聞いた。特に7年前に若くして亡くなった末の弟はお祖父さんの話を聞くのが大好きで、よくせがんで聞いていた。だから、関ケ原の脇を通過している時「達夫がいたら喜んだだろうな」とつぶやいたら「そう思う時は達夫さんがソバにいるのよ。このバスに乗っているわ。」と女房が言った。

Photo 芭蕉は8月19日(新暦10月2日)頃、関ヶ原を通っている。天下分け目の合戦が行われてから89年しか経っていない。未だ歴史になっていない時期だ。従って何もふれず結びの地大垣の記述に入る。「親しき人々日夜訪ひて、蘇生の者に会うがごとく、且つ悦び且ついたはる。」と門人の近藤如行の家に泊まった芭蕉を取り巻く人々の様子を書いている。山中で別れた曽良も伊勢から合流し、旅の疲れもまだとれないのに、伊勢の遷宮を拝むため、9月6日新暦(新暦10月18日)水門川の船町港から芭蕉は、曽良と敦賀から同行してきた路通を同伴者として舟に乗った。写真は奥の細道むすびの地記念館の前を流れる水門川とレプリカの舟。

Photo_2 この記念館は中々良い。私達はここで今回の16回に及ぶツアーを終了した。展示に工夫がこらされ、3Dの映画も良かった。私達は三十数日をかけて旅した各地を思い起こしていた。いずれ改めて旅行記として纏めてみたいものだ。最後に巻末の句と解釈文を記す。なお 卷首旅立ちの「行く春や 鳥啼き 魚の 目は泪」句と対をなしている。

「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」

「はまぐりの身と蓋がはなればなれになるように、親しい人と別れて、行く秋とともに伊勢の二見へと、私は旅立つ。」

2013年6月 2日 (日)

(488)奥の細道を訪ねて第16回 その二

敦賀から結びの地・大垣まで  5月7日より9日

第2日 8日 行程 敦賀-金前寺…金ヶ崎宮ー気比神宮ー天屋玄流旧居跡ー常宮神社ー色の浜ー西福寺ー西村家ー小谷城跡ー慶雲館ー長浜(泊) 長浜ロイヤルホテル

Photo_2  8月14日(新暦9月27日)の夕暮れ、等栽とともに敦賀に入った芭蕉は出雲屋に宿をとり、その夜気比神宮に参拝、仲秋の宵待月を観月、雨の翌15日は天屋玄流宅及び金ヶ崎・金前寺に遊び、16日色ヶ浜に泊まっている。敦賀の冒頭の本文に「その夜、月殊に晴れたり。」と書いている。「明日の夜もかくあるべきにや」と問いかける芭蕉に「北陸の天気は変わり易いから明日の夜は判りません。一杯飲んでからお参りしましょう」と宿の主人とのやり取りを書いているのも珍らしい。翌日は主人の言葉通り雨が降る。仲秋の夜に月を眺めることが出来なかった無念さを「名月や 北国日和 定めなき」と詠んだ。

 気比神宮は立派なお社だった。大鳥居の前を走る道路の反対側に「お砂持ち神事の像」が建てられていた。それは遊行上人が自ら草を刈り、土石を運んで参道を整備したという故事にもとづくもので、この話を宿の主人から聞いた芭蕉は、いま自分が立っている場所が遊行上人の運んだ土の上であることを知り、「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠んだ。

 敦賀に着いた翌々日、天屋五郎右衛門と舟で「種(いろ)の浜」に渡った。ここは西行の古歌にある「ますほの小貝」とよばれる小さな貝が取れる所として知られていたようだ。この貝を盃に沈めて酒を飲むのが風流だと聞いたような気がするが空耳だったかな。かって西行がここへ来て、「潮染むる ますほの小貝拾ふとて 色の浜とは言ふにやあるらん」と詠んだ。芭蕉は西行に憧れていたので是非とも行ってみたかったのであろう。その晩は本隆寺に泊まり、天屋が用意した酒や料理で楽しい時を過ごしたようだ。本文に次のニ句がのっている。「寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋」「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」

 Photo_2 2日目も良い天気に恵まれ、行程表の通り案内してもらった。先ず金ヶ崎宮で神主さんの説明を聴き金ヶ崎城跡を見物。浅井長政に嫁いだ織田信長の妹お市の方が、信長の「朝倉攻め」の際に陣中見舞いと称して機智に富んだ届け物を送り、それを理解した信長が素早く退却して九死に一生を得たのがこの場所だと知った。城址は敦賀湾が一望出来る絶好の地点にあった。金ヶ崎宮を後にして、気比神宮に詣でてから芭蕉ゆかりの所を二三見て、敦賀湾沿いの道を走り、色の浜に向かった。途中に気比の松原や常宮神社や本隆寺を見て引き返してきた。そのまま走って行けば敦賀原子力発電所にぶつかる。写真は気比の松原で撮ったもので眺めの良い海岸だった。この後、西福寺の庭園を拝観してから今日の目玉、西村家に向かった。

Photo_3

 写真は西村さんから説明を受けている様子を映している。国道8号線の峠に民芸茶屋「孫兵衛」があり、私達はそこで昼食のとろろ蕎麦を美味しく頂いた後、テーブルを片つけて西村さんを取り囲んで座った。西村さんはここのご主人である。「おくのほそ道」の底本の一つで、芭蕉が能書家の素龍に清書させ表題だけを自筆した「素龍清書本(西村本)」を見せて戴いた。これは国の重要文化財に指定されており、ケースに入った指定書も見せてもらった。この本は、芭蕉の最後の旅となった大阪への旅に持参し、遺言により弟子の向井去来に渡され、何人かを経て敦賀の俳人白崎琴路に渡り、さらにその親戚の西村家に伝わったものらしい。レプリカはお店に常時展示しているが、実物は中々みせて貰えないらしい。「とろろ蕎麦を何杯お代わりしてもダメですよ」と大橋さんが言って笑わせた。

 この文章を書くにあたってヤフーで「奥の細道ー素竜本」と検索したら、数人の方が写真入りで詳しく書いておられるので、興味のある方はそちらをご覧いただくことにしよう。私達は道路を渡ったところにある西村さんのご自宅の立派なお庭を拝見し記念撮影を済ませてお暇し、小谷城阯に向かった。明日姉川の古戦場に行くが、ここに織田軍が攻めよせ、浅井長政が自刃、お市の方と三姉妹が助け出された悲劇の場所かと思うと吹いている風も冷たく感じた。

2013年5月26日 (日)

(487)奥の細道を訪ねて第16回 その一

Photo_2敦賀から結びの地・大垣まで  5月7日より9日

行程 第1日  東京=<ひかり505号8:33>=米原10:45ー越前芳春寺・・・ふるさと散歩道・・・紫式部公園ー湯尾峠ー木の芽峠ー敦賀(泊) 敦賀マンテンホテル駅前

    第2日 敦賀-金前寺…金ヶ崎宮ー気比神宮ー天屋玄流旧居跡ー常宮神社ー色の浜ー西福寺ー西村家小谷城跡ー慶雲館ー長浜(泊) 長浜ロイヤルホテル

    第3日 長浜ー慶畴寺ー長浜八幡宮ー姉川古戦場ー観音寺ー大垣・結びの地記念館ー円通寺ー名古屋=<ひかり530号18:24>=東京20:10

 「奥の細道を訪ねて」全16回のツアーが終わろうとしている。初回は平成22年の9月で、芭蕉庵があった深川界隈を歩き、11月から月1回のペースで千住、古賀、日光、年が変わって1月に黒羽、2月の那須湯本、芦野まで順調に歩を進めて来たのだが、23年3月に東日本大震災が起こって催行が中止となり、9月に白河の関、須賀川が実施されたものの福島以北は翌24年に延期となった。4月に再開されたので早速申し込んだが、生憎都合が悪くなり二本松、福島、飯坂はパスし、5月の白石、仙台、多賀城からはスケジュール通り参加出来て今回を迎えた。パスした福島は6月に行くことになっているので、ほぼ3年で完歩することになる。

Photo  このツアーは私が参加するようになる前から催行されていたから既に完歩者が出ている。今月完歩を迎える方は21名おられるそうだが、そのうちの15名の方が今回参加された。長浜ロイヤルホテルでの夕食の席で完歩認定証と記念品がその方々に渡された。大橋講師と能津添乗員さんが芭蕉と曽良に扮して幕の陰から登場してきた時、その茶目っ気に思わず拍手が起こった。貫録充分の芭蕉と病気が治って血色のよい曽良と全員で記念写真に納まった。そして34名の参加者の懇親にと大橋さんが用意した歌詞カードを見つつ全員で「琵琶湖周航の歌」「四季の歌」「高校三年生」「今日の終わり」などを歌った。「どなたか何か歌って戴けませんか」と大橋さんがおっしゃるので、恥ずかしながら小生が「仰げば尊し」を歌わせてもらった。それは6月に完歩となったとき、若しも講師が他の方であった場合、一番お世話になった大橋さんにお礼を言う機会がなくなってしまうから、この機会に受領者に代わって歌わせてもらったのだ。そうしたら受領者の一人が「蛍の光」をソプラノで歌い、卒業式のような雰囲気になってしまった。

Photo_3  今回の旅は娘2号が付きそってくれた。女房一人では私の面倒を見たり写真を撮ったり出来ないと、前回からサポーターとして娘に付き合って貰うことになった。写真は越前市にある紫式部公園で、越前富士と親しまれている日野山をバックにして撮ってもらったものだ。本文の福井のくだりに「漸く白根が嶽かくれて、比那(ひな)が岳あらはる。あさむつの橋を渡りて、玉江の蘆は穂に出でにけり。鶯の関を過ぎて湯尾(ゆのを)峠をこゆれば・・・」とあり、5月に見た「朝六つの橋」、今眺めている比那が岳(現在名・日野山)、これからの峠越えと芭蕉さんの足取りがぐっと身近に感じられる。

 8月11日(新暦9月24日)の夕方、芭蕉は一人で福井に入り、江戸で旧知の仲であった等栽の家を訪ね、ニ晩泊って等栽とともに敦賀に向かっている。従って、このあたりは二人で歩き、13日は今庄宿に一泊した後「十四日の夕暮敦賀の津に宿をもとむ」とある。

P5072324  私達は快晴の5月7日、米原から迎えのバスで福井市郊外の武生まで行き、芳春寺の見学から第1日目の行程が始まった。「弐万石でも武生は城下 紙と刃物と式部そば」の看板を街で見かけた。源氏物語の紫式部が、越前国司となった父・藤原為時とともにこの地を訪れ一年余りを過ごしたそうだ。越前市の観光スポットで、文化勲章受章者の園鍔勝三が制作した紫式部像が日野山を望んで立っていた。良い天気なので、ゆっくりした時を過ごしたかったが、そうも行かず昼食後直ぐに湯尾峠へ向かった。添乗員の能津さんが私のことを心配してくれて、無理をしないように とダメならバスに戻れるよう配慮してくれたり、大橋先生が倶利伽羅峠の時のように私に付いてくれて、途中で休めるよう折り畳み椅子を用意してきたと聞かされては、意地でも頑張らなければならない。娘と女房に支えられなんとか無事に峠越えが出来た。約1時間の山道を終えて迎えのバスに乗ると、待っていた仲間から一斉に拍手が起こり恥ずかしいやら嬉しいやら照れくさかった。

Photo  次の「木の芽峠」はあらかたバスで登れたので楽だった。標高628mに位置し古くから多くの人が往還した名高い峠である。高所なので八重桜などがまだ残っていた。峠の茶屋の主 前川永運(えいうん)さんは大変かわった方で、頂いた名刺には「五十代士族」との肩書があり「桓武天皇六代の後胤 平貞盛ニ男 従四位の上 出羽守平惟衡より四十三代 平清盛より三十七代」と付してあった。名刺の裏には「織田信長は当家の分家なり」とか細々と故事来歴が書かれてあり、その方が何故雪深いこの地で、たった一人でこの家を守っているかの説明をした後、囲炉裏で沸かした湯で自らお茶をいれ皆に振舞ってくれた。世の中には不思議な人がいる。旅行社から貰ったパンフレットにあった解説を要約すると、

Photo 前川家は遠く南北朝時代足利家臣として越前に入り守護を務めたが、戦国時代朝倉氏に追われ、木の芽に来住したのは文正元年(1466)である。秀吉が柴田勝家を破った天正11年(1570)、帰陣に立ち寄り陣小屋と茶釜を与えた。慶長6年(1601)結城秀康が入国の折現在の建物建てたと記録されている。以後明治維新まで歴代の福井藩主の通過休憩所となった。北陸道が西海岸沿いになり、また国鉄北陸線の開通によって峠の道はすたれ茶屋は山中の一軒家となってしまったが廃家とせず維持されている。写真は同行の方が撮って下さった。頑張って歩きました。

2013年5月19日 (日)

(486)奥の細道を訪ねて第15回 その四

Photo_4 曽良との別れ 与謝蕪村筆 第3回から続く

 芭蕉の館でいい唄聴いた。いまもって耳に残っている。それは、木立のみどり、清流の水音、澄んだ空気といった環境に暫く身を置いてから聴いたからかもしれない。「ツアーの会社の方から頼まれましたから」と前置きして、芭蕉の館の説明が一通り終わってから、しばし呼吸を整え「はぁ~・あ~・あ~・・・忘れしゃんすな 山中みちを ひがしゃ松山 にーしゃ薬師」と歌い出した。齢の頃は60前後とお見受けしたが、すこぶる付きのいい声で、ツアーの一同は聴きほれた。訊けばボランティアガイドさんだそうだが、いい耳の保養をさせてもらった。いま改めてユーチューブで伴奏つきの演奏をあれこれと聴いてみても、あの時の感動は得られない。共同浴場の「菊の湯」にも入ってみたかったし、「ゆげ街道」のぶらぶら歩きもしてみたかった。なお「菊の湯」は本文にある「山中や 菊はたをらぬ 湯の匂」からとったのであろう。

Img_7729 永平寺 本文は山中から全昌寺となり越前入りとなるが、私達の行程は2日目に全昌寺を見ているので、今日は丸岡城を経由して永平寺に向かった。山中温泉を出ると、直ぐに雨が降り出した。小粒の雹が混じったりして荒れ模様になってしまったが、丸岡城に着いた頃は多少小降りとなったので助かった。「一筆啓上火の用心 おせん泣かすな 馬肥やせ」の日本一短い手紙として有名な柴田勝豊が築いた城である。標高約17mの岡の上に立つ平山城だが、野面積みされた石垣の天主台の上に天守閣が置かれている構造になっているので、年寄りは危ないから天主閣の廻りを一めぐりしただけで中には入らなかった。丸岡城を後にして永平寺に向かう途中、松岡の天竜寺に寄った。 芭蕉が北枝を伴って大聖寺を立ったのは8月8日(新暦9月21日)のことで、本文に「丸岡天竜寺の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。」とある。当時の住職が江戸品川の天竜寺にいた頃、芭蕉と交遊があったらしい。ここで金沢から随行してきた北枝と別れ、「物書きて 扇引きさく なごりかな」と詠んでいる。近くに立派な造り酒屋「黒龍」があった。1804年創業の老舗で、注連縄を張った杉玉が珍しかった。P9051185

 永平寺は年間100万人以上の観光客が訪れる北陸随一の観光地だそうだが参禅のために来る人も多いようだ。本文に「道元禅師の開基した寺で、都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場を作ったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。」と書いている。あわただしく参詣を終えると、早や帰り仕度。小松空港までの帰り道にあちこちと案内してもらった。

 まず「汐越の松」。これは芦原(あわら)カントリークラブの敷地内にあった。クラブハウスの外に立派な文学碑があり、9番ホールの横に枯れた松の残骸と記念碑があった。芭蕉は吉崎の入り江から舟で渡ったらしい。越前入りの冒頭に「越前の境 吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。」と書かれている。歌枕の地で、西行が詠んだといわれる一首引用して、情景はこの歌に尽きるとしている。「よもすがら 嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松」

 次いで吉崎の本願寺吉崎別院に参詣、真宗中興の祖 蓮如上人の遺徳を偲び、橋本左内の銅像がある左内公園で芭蕉が2泊したとされる等栽の宅跡を見て、歌枕の地「玉江ニの橋」、「朝六つ橋」の2つに立ち寄ったときは疲れてきて、もうどうでも良くなってしまいバスから降りなかった。そののち篠原の古戦場に斎藤別当実盛の亡骸を葬ったたされる実盛塚を訪ね、最後に安宅の関へ来た時には、日没近く暗くなり寒風が強く見学も早々に切り上げ空港に急いだ。

Img_7582 小松空港にて 今回の旅もこうして終わった。到着した3日前は、北朝鮮の不穏な情報が流れて戦闘機の爆音が喧しかったがこの日はそのようなこともなく静かだった。慌ただしい3日間だったが、何とか無事に完歩出来て良かった。芭蕉の足跡を辿って福井の入口までやってきた。敦賀から結びの地・大垣までを連休明けの7日から2泊3日で廻る。今度の旅行記の最後山中節で締めておこう。芭蕉の館のお姐さんは2番3番を次のように唄った。

「谷にゃ水音 峯にゃ嵐 あいの山中 湯のにおい」「送りましょうか 送られましょうか せめてニ天の橋までも」

 こんな歌詞もあるんだよと女房に言った。「山が高うて 山中見えぬ 山中恋いしや 山にくや」「お前百まで わしゃ九十九まで 共にしらがの生えるまで」

2013年5月12日 (日)

(485)奥の細道を訪ねて 第15回 その三

  • 曾良との別れと芭蕉の苦悩  加賀百万石の城下町 金沢より福井まで

 2013年4月9日~11日

2日目の続き

 8月7日 曽良は全昌寺を出発し吉崎を経て森田に向い、芭蕉は小松を立ち大聖寺に着き、曽良と同じ全昌寺にとまった。すれ違いである。本文は金沢、多太神社、那谷、山中、全昌寺の順に書かれているが、私達は雨の小松路を訪れてから同市の那谷寺を見学し、全昌寺をみてから、2日目の宿泊地 山中温泉に向かった。

Img_0122  那谷寺金堂 那谷寺は岩屋寺という名称だったが、西国第1番の札所紀伊の那智山と33番の美濃の谷汲山の各一字をとり那谷寺と改称、全国観音札所総納霊場とされた由緒ある寺で、芭蕉は8月5日に参詣したと既に書いた。本文にもそのあたりの事が書いてあり、「石山の 石より白し 秋の風」が添えられている。

全昌寺は小振りな寺だがいいお寺だった。芭蕉が泊まった部屋が茶室として復元されていて見せて戴いた。本堂には杉風作の芭蕉木像、極彩色の五百羅漢があった。お寺としては珍らしく喫茶コーナーがあり、九谷焼の展示品が飾ってあったので、旅の記念にぐいのみを3つ買ってきた。

 曽良はここで「終宵〈よもすがら〉 秋風きくや うらの山」と詠み、芭蕉は「庭掃いて 出でばや寺に 散る柳」と詠んだ。曽良は師匠と別れての旅を味わい一晩中眠れなかったようだし、芭蕉も何時間か前に曽良が旅立ったことを知って、本文に「一夜のへだて千里に同じ」と書いている。

予定ではこの後 医王寺に行ってからホテルに入る事になっていたが、住職が不在とやらで明朝一番となりホテルに早目の到着となった。折角の名湯 山中温泉なのだから、年寄りにはこの方が有難い。お陰様でゆっくりと温泉に浸かることができた。

 第3日 山中温泉ー医王寺ー温泉街散策・・・こおろぎ橋・・・あやとり橋・・・山中座・・・芭蕉堂ー丸岡城ー天龍寺ー永平寺ー左内公園ー玉江二の橋―朝六つ橋ー実盛塚ー安宅の関ー小松=羽田

Photo 医王寺 夜来の雨もあがって日差しが眩しい朝であった。濡れた桜の花が朝日にきらめいて美しかった。医王寺は温泉街を見下ろす斜面の上にあった。聖武天皇の天平年間(728-748) 僧行基が自ら薬師如来の尊像を刻み開基したと伝えられている。このご本尊は温泉の守護仏として、また諸病平癒を祈願される仏さまとして、厚く尊崇されているという。私もお賽銭を上げて持病平癒のお願いをした。山中節の一節に「東や松山、西や薬師」と唄われ、古くから温泉入湯客の心と身体のやすらぎの寺として親しまれている とお寺の沿革に書いてあった。住職さんが一通りお寺の説明をした後、寺宝展示室に席を移し寺宝の解説を終えてから、「のちほど芭蕉の館で、女の人の山中節を聴かれるかも知れませんが」と前置きをして、山中節を唄ってくれた。バリトンのいい声だったが、墨染めの衣を着た住職さんの唄をお寺で聴くのは初めてで楽しかった。

Photo_2 こうろぎ橋 医王寺の見学を終えて、私達は名勝こおろぎ橋から鶴仙渓遊歩道を芭蕉堂まで下った。大聖寺川の清流に沿って作られた遊歩道で、途中 芭蕉も見たであろう道明ヶ淵、黒谷橋などがあり、また あや取り橋など大変良い眺めのところもあったが、昨夜の雨で路が濡れ、露出した木の根は滑り、アップダウンもあって、手摺りも満足でないところが多いので、女房と娘に両脇を抱えられ、あたかも拉致された如くの状況で、やっとのこと完走、景色を鑑賞するゆとりはなかった。私も疲れたが二人はもっと草臥れただろうと思う。

 だが、次に訪れた芭蕉の館ですっかり疲れを忘れてしまった。ここは芭蕉が泊まった泉屋に隣接した扇屋別荘を改築したもので、築後百年 白壁鉄扉造りの宿屋建築で、建物も素晴らしいが和風情緒いっぱいの広い庭園があり、資料展示室には、芭蕉が書き残した「やまなかや 菊は手折らじ ゆのにほい」の掛軸真蹟や扁額など多くの俳諧資料が展示されていた。そこで素晴らしい唄を聴いたがその話は長くなるので次回に送り、頂いた散策マッップに書かれていた事を転記しておこう。

Photo 鶴仙渓・芭蕉堂 立花北枝の案内で山中温泉に到着したのが陰暦七月二十七日、新暦では九月十日にあたります。宿泊したのは山中温泉十二家の一つであった泉屋で、主人は後に泉屋甚左衛門を名乗る久米之助。当時まだ十四歳の少年でした。(中略) この泉屋に八泊九日もの長逗留 をする間に山中温泉を堪能し、その効は有明(有馬温泉)に匹敵すると述べ、有名な 「山中や 菊はたおらじ 湯のにおひ」の名句を残しています。 「菊はたおらじ」とは、芭蕉自身が「彼の桃原も舟をうしなひ、慈童が菊の枝折もしらず」と中国の桃源郷、菊慈童の逸話をもとに山中温泉の良さを句の意としたと説明しています。 
 しかし江戸深川を発った時からずっと行動を共にしてきた曽良が腹を病み、伊勢国長島の縁故を頼ってひと足先に旅立ちたいと芭蕉に申し出ます。現代と違って当時の旅は命懸けで、一度別れれば二度と会えないかもしれません。山中温泉での別れに際して曽良は 「行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原」 の句を残し、芭蕉は 「行く者の悲しみ、残る者のうらみ、双鳥の分かれて雲に迷ふがごとし」と嘆き、「今日よりや 書付消さん 笠の露」今日からは一人になる。江戸を旅立つ時に笠に記した「同行二人」の文字も笠に置いた露で消してしまおう。とその淋しさを句にしています。  
 一人旅となった芭蕉は、岐阜県大垣で実に一四三日にわたった「奥の細道」の旅を終えました。この大垣で山中温泉で別れた曽良とも再会しています。

 さて 今日は神田祭の宮入りで、朝から晩まで神輿が私の家の前を通るから落ち着いてはいられない。東日本大震災があって4年ぶリとなった祭りだから気合いが入っている。一日楽しませて貰おう。

2013年5月 5日 (日)

(484)奥の細道を訪ねて 第15回そのニ

曾良との別れと芭蕉の苦悩  加賀百万石の城下町 金沢より福井まで

 2013年4月9日~11日

Img_0117 第1日の残りを先ず書く。

 兼六園からの移動中の車内で、今回もお世話になった大橋講師が加賀の千代女(1703ー1775)の話をしてくれた。「朝顔に つるべ取られて 貰い水」の句が有名で、その繊細な感覚で情緒的に優れた句を多く詠んだ と言われているが、不勉強でこの句しか知らない。何時覚えたのかの記憶もない。学校で学んだものか絵本で知ったことか分からない。女房も娘も「そうだ」と言う。だが孫達は恐らく句そのものを知らないのではないかと思う。そうしてゲーム機いじりに夢中だと聞くと、豊かな感性をもった人間に育たないのではないかと心配になる。そんなお喋りをしている間に「ひがし茶屋街」に着いた。写真のような街並みで、時代劇の舞台に紛れ込んだような錯覚におちいる。中には家の中に入れるお茶屋文化館のような町屋もあったが、見物する予定も時間もなく、ただぶらぶらと通り過ぎただけだった。ホームページを覗くと綺麗なお姐さんもいるようだから、こんな処で一晩宴会をやってみたいものだと思って歩いていると、桃われのような髪に結った若い子とすれ違った。残念無念。

 桜並木が美しい浅野川に掛かった歩行者専用の木橋、梅ノ橋を渡って、滝の白糸の記念碑をみて泉鏡花記念館を割愛し、徳田秋声記念館も素通り。中田屋できんつばを買って外に出た頃には、とうとう雨が降ってきて見物どころではなくなった。すぐ近くに主計町茶屋街、犀川の西には「にし茶屋街」もある。長町武家屋敷跡も見てみたい。もう一度ゆっくりと来たい金沢であった。バスは既に暮れた山側環状道路を暫く走って、第1日目の宿泊場所金沢国際ホテルに着いた。中々立派なホテルで夕食は加賀料理を味わった。当然 地酒も楽しんだ。

4月10日 第2日 金沢国際ホテルー小松天満宮ー兎橋神社・・・建聖寺・・・本折日吉神社ー多太神社ー那谷寺ー全昌寺ー山中温泉:泊 河鹿荘ロイヤルホテル

 2日目の朝は雨だった。先ず小松天満宮に詣でる。境内に芭蕉の句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」があった。前回書いたように7月24日(新暦9月7日)小松に着いた芭蕉は、一泊して直ぐに山中温泉に向かうつもりだったが、小松の人々が当地出身の北枝に頼んで芭蕉に教えを乞うたために句会を重ね結局3泊し、その間に多太(ただ)神社に詣でて斎藤別当実盛の兜を見ている。私達は雨の中を兎橋神社、建聖寺、本折日吉神社と歩いて回り句碑を見た。建聖寺は芭蕉が泊まった寺で当時は立松寺と言い、芭蕉の木像があった。なお「しほらしき 名や小松吹く 萩薄」の句は本折日吉神社で開いた句会で詠んだと言われている。

Photo 斎藤別当実盛の兜 多太神社のホームページより転載 

 倶利伽羅峠で大敗した平家は、木曽義仲と篠原で再び相まみえたが頽勢を挽回出来ず総崩れとなって都へと敗走したのだが、その際 実盛は73歳の老齢を隠すため白髪を黒く染めて出陣し、勇戦したが遂に討たれた。立派な兜首は兵卒の者にあらずと首実験をしたところ、何とその昔、幼い義仲の命を救ってくれた実盛の首であった。涙の対面の後 懇ろに弔い、その甲冑を当神社に奉納したという。このお話も「源平盛衰記」に出てくる有名な話だが、現存しているとは知らなかった。社宝として大切に展示され、国の重要文化財に指定されている。芭蕉が拝観した時に詠んだ句「むざんなや 甲(かぶと)の下の きりぎりす」は、首実験の際 義仲の家臣 樋口次郎兼光が「あな無慚、実盛にて候」と言った故事からきている。

Photo

 この話は平家物語にも出てくるし、謡曲でも広く知られていたせいか、湯島天神の近くにも「実盛坂」と名付けられた坂がある。何故ウチの近所に と不思議に思っていたので改めて見に行った。写真を拡大してお読みいただけば解るように、それは、実盛の男らしさ、プロ軍人としての美学が多くの人々に感動を与え続けて来たからであろう。私が参考にしている本(松坂元・白石悌三 校注・現代語訳「おくのほそ道」)の現代語訳も感動的に訳しているので、その一部を転記する。

Photo  実盛の甲を見ていると、その下からきりぎりすの鳴く音がきこえてくる。樋口次郎が実盛の首実検のとき、「あなむざんやな」と叫んだというが、いま甲を前にして私も同じ言葉を発したくなる。しかも、勝者も敗者もことごとく歴史の彼方に消えていった今、きりぎりすが昔のままのか細い音で鳴いているのを聞くと、人間の運命のむざんさに対する思いは、いっそう胸をうつ

 7月27日 小松を立ち、山中温泉に着く。泉屋方に宿す。以後8月4日まで同地に滞在、5日 芭蕉は北枝と共に那谷(なた)寺に向い、曽良は芭蕉と別れて一人で大聖寺に向い全昌寺に泊まった。江戸からはるばるとこの地まで旅を重ねてきて、袂を分けた二人の心境は如何ばかりであったろうか。翌6日は朝から雨で、曽良は全昌寺に滞在し、芭蕉は小松に滞在している。従ってこの日以降の曽良日記では芭蕉の動向は掴めない。この辺のくだりは今回の旅行では3日目のことなので、稿を改めることにする。

2013年4月28日 (日)

(483) 奥の細道を訪ねて 第15回その一

 曾良との別れと芭蕉の苦悩  加賀百万石の城下町 金沢より福井まで

 2013年4月9日~11日

行程  第1日 羽田空港=小松空港ー妙立寺ー兼六園ー小坂神社・・・心運社・・・、ひがし茶屋街ー金沢:泊 金沢国際ホテル

     第2日 金沢ー小松天満宮ー兎橋神社・・・建聖寺・・・本折日吉神社ー多太神社ー那谷寺ー全昌寺ー医王寺ー山中温泉:泊 河鹿荘ロイヤルホテル

     第3日 山中温泉・・・温泉街散策・・・こおろぎ橋・・・あやとり橋・・・山中座・・・     芭蕉堂ー丸岡城ー天龍寺ー永平寺ー左内公園ー玉江二の橋―朝六つ橋ー実盛塚ー安宅の関ー小松=羽田

 奥の細道のツアーも回を重ねて15回となり、北陸道は富山から石川に入った。昔流にいえば越中から越前に入ったということになる。象潟を北限として日本海に沿って西へ下ってきた芭蕉と曽良の二人は、市振の一夜を経て加賀入りを果たし、金沢から多太(たた)神社から那谷(なた)を過ぎて山中に至り、病を得た曽良と別れることになり、そこで「今日よりや書付消さん笠の露」と詠むあたりを訪ねる。

10  栗原幸彦画 冨士箱根10景から「雲上不二」 朝7時10分に羽田空港JAL時計台③前集合、時間厳守と案内が来たので余裕を見て6時少しすぎに家を出た。朝早いので同行の娘1号は前夜こちらに泊ってもらった。私のところは足の便がいい所だから構わないが、遠距離からお見えになる方は暗いうちに家を出なければならないだろう。定刻7時50分に出発、小松空港にも定刻の8時50分に着いた。左側のシートだったので富士山がこの絵のように雲の上に浮かんで見えた。機長から「只今 機は高度を下げて飛行中です。間もなく左側に富士山が見えます」とアナウンスがあった。サービスしてくれているのだナと思う。やがて雪の山塊を越えるともう着陸のあっけない空の旅であった。以前 松江に演奏旅行に行った時、富士山の真上を通り、お釜を覗きこんだことがあったが、やはり富士山は仰ぎ見る方が良い。

 空港からはバスで、まず加賀百万石の祈願所妙立寺(みょうりゅうじ)に案内された。人、呼んで忍者寺という。境内はさほど広くないが、極めて複雑な構造の建物で、アッというような仕掛けが随処にあって面白い。寺町寺院群の一角にあり、そこは北陸街道の要衝でもあるので、一朝ことある時に備えて作られたのであろうが、明治に至るまでその仕掛けが役立つ機会はなかった。その裏手の願念寺に一笑塚があった。芭蕉はその頃金沢で名を高めていた一笑と会うのを楽しみにして来たのだが、前年の冬に若くして亡くなったと聞き、その兄が開いた追善の句会で「塚も動け 我が泣く声は秋の風」と詠んだ。一笑塚には「心から 雪美しや 西の空」の句が刻まれていた。碑を見て兼六園に向かうバスまで歩く道に「らくがん」を売る菓子屋とか、「脂とり紙」や金箔を売る風情ある店が立ち並んでいた。

Photo  私達は蓮池門から兼六園に入って噴水の前のお茶屋で昼食を取った。室生犀星の小説「性に目覚める頃」に出てくる茶屋だと掲示が下がっていた。折から桜祭りが開かれていて入園料は無料とか、大勢の人出であった。数日前低気圧が通過して日本中荒れ模様だったが、写真のように桜が満開で見事だった。園内を自由に散策し石川門の前に出て集合場所に向かった。昔ここに来た時は石川門口から入って市内を見下ろし、民家の黒瓦の輝きが印象に残っていたのだが、大分景色が変わっていた。この旅の仙台でも青葉城からの眺望で同じ感慨をもった。バスは金沢城の石崖に沿って百万石通りを下り、金沢一の繁華街、香林坊を通って「ひがし茶屋街」に向かった。芭蕉は金沢に9日間滞在したが、その宿は片町の宮竹屋で香林坊のすぐ近くであったようだ。

 475話で曽良日記に7月15日(新暦8月23日)高岡を立って午後3時頃金沢に着いた とあった。この日は浅野川近くの京屋吉兵衛方に宿をとり、翌16日から宮竹屋喜左衛門方に移った。日記を読むと、このあたりから曽良の体調が悪くなってきたようにみえる。
 7月17日 芭蕉は源意庵に遊ぶ。曽良は病気のため随行せず。18日、19日は特に記事がない。20日 犀川ほとりの松幻庵にて句会。夕方、野畑に遊ぶ。21日 曽良は医者の高徹に会い薬をもらう。芭蕉は北枝(ほくし)、一水を同道して寺に遊ぶ。22日 願念寺にて一笑の追善会。高徹が見舞いに来て、また薬をもらう。「各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。暮過、各ニ先達 而帰。」

 芭蕉が「塚も動け・・・」と詠んだ句会に曽良は夕方から参加し、先に帰っている。翌23日 芭蕉は宮の越に遊んでいるが曽良は病気ゆえ行かず とあり、24日に金沢を発って小松に向かっている。その日は快晴で、別れを惜しむ人達が見送った。ある人は町外れまで、またある人は野々市まで餅や酒を持参して二人を送った。その後、金沢でその才能を認められた北枝が随行して加賀藩領内を案内する。竹道も同道し、午後4時頃小松につき、竹道が懇意にしている近江屋に泊まった。

 これで金沢の項は終わるので、本文にある残りの句を書き留めておく。

 ある草庵にいざなわれて 秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子

 途中吟            あかあかと 日はつれなくも 秋の風

 小松といふ所にて     しをらしき 名や小松吹く 萩すすき

 

2013年3月 3日 (日)

(475)奥の細道第14回その三

難所 倶利伽羅峠を越えて 2012年 11月6日~8日

行程 第3日 11/8 高岡ー瑞龍寺ー前田利長墓所ー放生津八幡宮・・・・荒屋神社・…藤波神社ー埴生護国八幡宮・・・・倶利伽羅峠・・・・倶利伽羅不動尊ーー金沢駅17:17発はくたか23/2号車=越後湯沢駅発20:08Maxとき348/4号車=東京駅21:20着

 Photo 三日目の朝は快晴だった。ここ二日がぐずついた天気だったので嬉しかった。ホテルのそばにある高岡大仏まで歩いて行き、そこからバスでまず前田利長の墓所をみて、瑞龍寺に向かった。墓所と寺とを東西に結ぶ八丁道は白い石畳が続き、職人さんが雪囲いの作業に励んでいた。国宝 高岡山瑞龍寺は高岡の開祖、加賀前田家2代前田利長の菩提寺で、3代利常の建立による。壮大な伽藍配置と豪壮にして典雅な美しさは見る者を圧倒する。伽藍は鎌倉時代の様式で、総門・山門・仏殿・法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて周囲を回廊で結び、厳粛且つ整然と配置されていた。仏殿の屋根は金沢城の石川門のように鉛板で葺かれていた。

 十五日 快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。

 Photo 私達はスケジュール通り各所を見物していよいよ倶利伽羅峠を歩くことになった。約1時間 山道を登った。道路は階段状に整備されていて歩き易かったが、長く続くので次第に遅れ、皆さんから取り残されてしまった。大橋先生が付き合って下さって、励ましても下さった。女房が元気に手を引いて助けてくれたので何とか完走することができ、皆さんに迷惑をかけずに済んだ。この峠は木曽義仲が牛の角に松明を結びつけ、平維盛が率いる平家軍に放つ「火牛の計」の奇襲で大勝利を得た古戦場として名高い。この話は子供の頃から知っていたので、どんな処かと興味をもっていたが、源平合わせて十数万の大軍が動けるような地形ではなく、講釈師見てきたような嘘をつき風の誇大表現であったようだが、今もそのように書いてあるのが面白い。

Photo 途中芭蕉塚の表示があり、次のように書かれていた。「俳聖 松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良とこの地を通ったのは7月15日の朝でした。芭蕉翁 『義仲の 寝覚めの山か 月かなし』この句は朝日将軍とうたはれた木曽義仲の末路を涙して詠んだ句で・・・・」。芭蕉は自分の墓は義仲の隣に作ってくれ と言ったそうだから余程好きだったのだろう。

 峠を登りきって不動尊にお参りし、今回の行程は全て終わった。小高い処なので滲んだ汗が冷たくなった。バスは一気に峠を下り金沢駅に向かった。駅は北陸新幹線の乗り入れが近いことから拡張され、準備に大童のようであった。雪も近いので、このツアーは明春暖かくなるまでお休み、再会を約して解散した。

Photo_2 与謝蕪村 「奥の細道画巻」 逸翁美術館所蔵
 

 ここまで奥の細道を読んできて、市振のこういう話にめぐり合い、益々本文を読むのが面白くなった。遊女の件は虚構か真実かの論争が絶えないそうだが、何れにしても芭蕉はこの話の効果を意識して挿入したのであろう。「一家に遊女もねたり萩と月」の「一家」の読み方も同じ宿に という単純な読み方と、人里離れた怪しげな一軒家とする説もあるそうだ

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