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(279)今年のお祭り

013  今年の神田祭は2日とも好天に恵まれ、役員、担ぎ手とも暑くて参った。見物人も高い気温と人いきれで参った。1年おきの本祭りで、前回は2007年の5月、「146話神田祭」として書いた。

 そこでも説明しているが、神田神社に至る道筋は2つあって、一つは本郷通りを小川町交差点から登ってきてニコライ堂の脇を進み、御茶ノ水駅東口から聖橋を渡り、本郷通りを右折して鳥居前に至る道と、神田明神坂下から登る道で、ここに私の店がある。自宅も直ぐソバだからお祭りの2日間は朝から落着かない。9日は朝8時から神幸祭の行列の太鼓で家を飛び出す。10日は朝9時からの連合神輿の宮入が始まり夕方まで休みなしにワッショイワッショイだ。とても家で座ってなどいられない。

 明神坂を登る神輿は先ず外神田地区連合が12基、日本橋室町1丁目がそれに続き、次いで岩本町・東神田地区連合が7基、午後になって中神田13ヶ町連合、次に神田駅東地区連合4基、秋葉原東部地区連合4基、夕方になってあたりを払うように悠然と旧神田市場の大神輿が登場する。その間をぬって本郷通りから神田中央連合5基、大手町・丸の内将門塚保存会神輿が宮入りする。

 053 宮入りは神社正面の大鳥居から入り 山門をくぐって拝殿前広場で神官からのお祓いを受ける。それがショーのクライマックスだから そこに入ったら最期なかなか引っ込まない、というわけで 明神坂下までそれぞれの町から担いできたのはいいが、そこで延々と待たされるという結果となる。うちのビルの前あたりが格好の休憩場所となって、ビールを飲んだり、おにぎりを頬張ったり、そして「お手洗いを貸して下さい」となる。

 顔見知りがいる町会は事前にお神酒を1本ぶら下げてきて「今年もお宅の前で休ませて下さい」と挨拶に来る。お祭りのことだから まさか断るわけにいくものか というわけで氏子でもないのに毎年神田祭に巻き込まれてしまう。

 神田明神は 遠く天平2年(730)大手町にある将門塚付近に創建されたという。江戸城の拡張により元和2年(1616)に現在地に遷座したのだが、徳川家康が関が原で大勝した日が丁度神田明神の祭礼の日であった ということから家康の尊崇をうけたというから当時の祭りは秋で、今のように5月になったのは明治25年からだそうだ。、社名も明治時代に「神田神社」と改められた。

 神田明神の大鳥居が建っている所は千代田区で明神様の氏子だが、そこに至る本郷通りも明神坂も その両側は文京区で湯島天神の氏子である。そして 私の店の所在地は千代田区だが天神様の氏子だ。お宮さんの縄張りと行政区とは一致しない場所が多い。

 最後に どうして隔年に祭りが開かれるのか?について千代田まち事典を参考にして書くと、赤坂日枝神社の山王祭とともに天下祭と呼ばれて幕府の財政援助を受けていたが、八代将軍吉宗の改革で隔年の援助に改められたらしい。寄付集めも毎年では大変だから、今は隔年で結構というところだ。

 神田祭はそのような訳があって隔年の祭礼だが、湯島神社はその話には関係ないので毎年5月25日が例大祭の日となっているが、神社付近の町会以外は蔭祭りと称し神田祭のひそみにならって、神輿を出さないし、神幸祭(神社神輿の渡御)もない。わが町会も来年は本祭りだ。

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(278)小旅行その3

 テレビを娘と見ている時「あらふぉー」という言葉を耳にして どういう意味か聞いてみた。最近は諸事忙しくなってきて、 単語まで縮められ省略されるから 若いタレントが出てくる番組を見ない我々は たまにそんな番組を眺めていると通訳が必要になる。「婚活」、「就活」なんかは凡そ見当が付くが「あらふぉー」はAround  fortyと聞いて納得、「それじゃァシニア会は『あら7』だ」と言って笑った。happy01

 傘寿旅行を企画してくれて 娘5人と孫7人、「あら8」のじいさま、ばばさまそして婿さん一人の15名が 8時半発の小田急ロマンスカーに乗車、箱根に向かった。生憎の空模様だったが、朝が早いこともあって土曜日だけれど登山電車もロープウエイも空いていた。大涌谷では温泉玉子を食べに公園の先まで上っていった。今度の旅行では大学生になった孫4号が、以前ここに来た時に 熱い玉子の殻を綺麗にむき終えて さあ食べようとして つるっと落として大泣きしたしたのを思い出して皆で笑った。

 16 小学生の孫6号と7号が皆のおもちゃで人気者、我々は彼等のお供のようなもので、婆ちゃんが一番嬉しそうだった。海賊船に乗っても小雨が降っているので年よりは船室で居眠り、先日泊った山のホテルが見えてきたら「ホラホラあそこに こないだ泊ったんだ。」と娘達に自慢。箱根の関所でも案内するか?と思っていたが 雨がやまないので 元箱根から真っすぐ宿に直行した。

 温泉に入り 家族一同水入らずで楽しい会食だった。孫1号から4号までは大人だから、もうジュースから出世してビール、娘達も後片付けの心配が無いからアルコール大いに結構 という風で盛り上がった。宴半ばで趣向が在って、ライトが消され、孫7号が点灯された8本のローソクが立ったケーキを6号を介添え人に従えて運んできた。「さあ ローソクを吹き消して下さい」birthday

 35 子供たちが幼い頃、何回かこんなことをしたこともあるが、自分がやってもらうなんてことは考えた事もなかったので 正直嬉しかった と同時に自分も年をとったのだな と実感した。「お祖父ちゃんはお祖父ちゃんらしくしろ」 とのメッセージだろうか?

 働き者の旅行で、翌朝も8時半に宿を出て、小田原に戻り大雄山線に乗り換えて終点で降り、道了尊には詣でずにアサヒビール神奈川工場の見学に行った。オジサン、オバサンの見学会ならいざ知らず、小学生を連れた家族旅行のビール工場見学というのも少ないだろうが、これが大当たりで試飲3杯まではタダ(未成年者はジュース飲み放題)の生ビールに大喜び、飲み終わってから、工場前にある「アサヒビール園足柄店」に入って、バーベキューで改めてビールを飲む人、赤ワインを楽しむ人と分かれゆっくりと昼食を楽しんだ。wine

 気分がよかったので、今度はシニア会を連れて来て、工場で試飲をしてから今度のように 安藤忠雄設計のこの店に寄り、芝生のガーデンで合唱でもしようか?と真面目に考えたりした。

 新松田からの小田急の車中は 皆いい機嫌でぐっすりお休み、新宿についても解散せず、結局神田までついてきて娘2号のところで 寿司を取って反省会。私はもう飲まなかった。一日休養して19日20日と甲斐芙蓉カントリーで一泊2プレーのゴルフをする。さて 上手く出来るだろうか?それが心配だ。

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(277)6連

原田泰治画「ふるさとー心の風景」第四集「春の風景」石川県鳳珠郡「小さな郵便局」Photo_2 毎年ゴールデンウィークの3日頃 東京芸術劇場大ホールで、東京六大学合唱連盟の定期演奏会が開かれる。今年は58回となった。第1回は1952(昭和27年)、日比谷公会堂で開かれた。その時のことは91話で書いた。その時 小生は現役3年生であった。

 年々隆盛を重ねてきた大学男声合唱団も数年前から陰りを見せ始め、今回は2階席から見渡せたせいもあるが、空席が眼についた。早稲田グリーの定期演奏会は毎年新宿の東京厚生年金会館大ホールで開かれているが、そちらも最近は満席にならない。しかし 6大学合同の演奏会ともなれば 満席になってないと一寸淋しい感じがする。

 それは舞台の上も同じで、各校の出演者数が少なくなってきて演奏の上にも反映されている。以前にも書いたと思うが 今年の出演者数を演奏順に書くと、T校15名、R校54名、W校73名、K校29名、H校10名、M校15名 計196名であった。数が多ければいいと言うわけではないが、エール交換や合同演奏の時に 舞台からこぼれんばかりに整列した光景を見続けてきたものにとってはなんとも淋しい状況ではある。

 東京から大分遅れて関西6大学合唱連盟が出来、そちらも毎年演奏会を開いているが、どうも6大学が揃わなくなりそうだ という話を小耳に挟んだことがある。九州6大学は既に頭数が揃わなくなったと聞いた。

 ここに1999年11月大阪フェスティバルホールで開かれた 第26回関西6大学合唱演奏会のCDがあるので 参考までに校名を演奏順に記すと、同志社;大阪大学:甲南大学:関西大学:立命館:関西学院の6校で、昔は全日本合唱コンクールで覇を競った何れも名門のグリークラブだ。

58 当日のパンフレット~「斜陽」と見るか?早稲田はここ数年 若い作曲家に人々が聞きなれた曲を組み合わせて編曲して貰い、フリを付け、お客様にショーとして楽しんでいただく という趣向のステージを作っているが、今年は大分洗練されてきて面白かったし楽しめた。私は合同演奏とM大学が委嘱した新曲2曲が聴きたいと思って出掛けて行った。早稲田の有能な後輩が合同演奏の指揮をする というのも関心があったけれど。

くどいようだが いまの現役が入学していない04年の各校別の出演者数を書いてみよう。T校15:R校35:W校73:K校30:H校11:M校33 計197名で総数は変わらないが、T.W.K.Hに比べR校とM校の消長が気にかかる。特に著名作曲家に新曲を委嘱し初演したM校はどうしたのだろうか?立派な演奏だっただけに来年はどうかと心配になる。

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(276)500回クラブ

10_2 栗原幸彦:箱根富士10景より「一番星」  シニア会では 練習に出席した日数が300回を超えた人を表彰して、記念品として会のマーク入りのネクタイピンを差し上げているが、会が出来てから満12年が経って、500回達成という方が現れた。小生も元気で歌い続けていられれば 今年度中には仲間入りが出来る筈だ。

 「121話 300回」として07年の2月に この事に付いて書いたけれど500回のお祝い品は考えていなかったので、先日開かれた総会の席では発表するに留め、これから幹部で相談し、秋の定期演奏会の打ち上げの時に 大勢の方々の居られるところで進呈しようという事になった。七・五・三でお祝いをしよう として始めたもので、練習参加1000回は無いだろうという目論見だが、もし実現したら何をお祝いしたらいいだろう?present

 前にも書いたように シニア会では練習経費を捻出するために練習の都度千円を支払うという仕組みで始めた。「もう年だからあまり拘束されず、出入り自由で千円払ってコーラスを楽しむ」という趣旨で、練習場に入ると出席簿に署名し、千円払うという風に躾けたのが、結果として出席回数何回とカウント出来、健康と会への貢献度を発表できる仕組みとなった。

 Wild_flowersPhoto  by Rikuo Natsume 1回千円だから500回で50万円、「塵も積もれば山となる」例えの通りで、50万円あれば何かが買えたかも知れないが、12年もの間、好きなコーラスを通じて多くの人々との交友を続けてこられたのだから、家でボヤボヤしながらカミサンに粗大ゴミ扱いをされているより よっぽど良かったのではないだろうか?そして亭主の面倒を見ているシニア会には 奥様にも感謝してもらわなければならない、とひそかに思っている。happy01

 事は簡単なようだが、持続してメンバーの出席回数をカウントし記録するのも大変な手間と根気がいる。そうした係りがいるお蔭で、このような他の団体では真似の出来ない統計がとれるし励む動機も作れるのだから、世話焼きにも感謝しなくてはならないのだが、空気と同じで元々ある仕組みだから感じないのではないかと思う。

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(275)遊びと「矜持」

Photo米田共人さんの写真集「洛北近郊」から「五月晴れ」 コーラスの練習の帰り、「喉の消毒」と称して仲間と居酒屋に寄る。今夜もその通りで 一杯やりながら色々な話で盛り上がった。たまたま戦争中に話になって、アメリカの戦闘機から機銃掃射を受けた某君の体験談を聞いた。

 「防空頭巾をかぶった小学生と知って逃げ惑う私たちを追っかけ、ひれ伏した至近の距離にダダダダと銃を乱射して行きました。生きている心地はしませんでしたが、彼等は遊んでいたんですね」「子供だって判るのかね」「判りますよ、直ぐそこから見ているんだから」「わざと当てないで すぐソバを打ってゆくんですよ」遊ばれたのだ。「一億一心火の玉だ」と敵愾心に燃えていた子供がその時に気づいただろか?

 気づく筈はない。私たち少国民はみんな「神国不滅」を信じ、米英撃滅を唱えていた。だが真珠湾攻撃の日「その内東京が焼け野原になるよ」と予告した相澤忠雄さんの話を日経新聞「私の履歴書」(4月23日)で読んだ。.相澤氏が戦死された昭和19年9月に「来年の今頃、東京には米兵が充満しているだろう」とも話されたと、近藤道生氏が書いている。

Photo  石楠花」 山のホテルの庭園にて(4月22日)どうして勝てるはずの無い戦争に突入したのか?という話を書くわけではない。大人、子供を問わず、また政治、軍事、経済の面からも、日本は「遊ばれたのだナ」と思った。アメリカから屑鉄を買い、アメリカ製の工作機械を買って軍備をし、アメリカから石油を買って兵隊さんを輸送した戦争だった。どれだけ日本が戦えるのかアメリカは楽しんで見ていたのだろう。日本人が試されたのかも知れない。

 Photo 浄蓮の瀧「臥薪嘗胆」という言葉は、三国干渉で終わりとしてしまい、帝国陸海軍の「矜持」のために大変な犠牲をはらった。「矜持」の為の死と「遊び」との隔絶、それはあまりにもむなしい。優秀な若い人達を沢山殺してしまった戦争が始まってから そろそろ70年にもなろうとしている今日、払った犠牲が無駄になってしまう様な気がして恐ろしい。

 4月18日(土)の日経夕刊「あすへの話題」で有馬朗人氏が「原爆のない世界を」と題した文章の中で、アメリカで物理学の研究をしている時、原子爆弾を作るうえで中心的役割を果たした二人の高名な学者から昼食を誘われ、その際に原子爆弾をどうして日本に投下したのか、と質問し、日本が負けることが判っていた時、2都市の一般市民を標的にすべきでなかった といわれたそうだ。

Photo_3 乙女峠にて (4月22日) 大した度胸だし、其の質問は日本人が等しく持つ疑問だが、政治家に向けられるべき主張であって、科学や技術は 殺し合いの時に最も進歩してきたのではないだろうか?技術者に其の責を負わせるのは酷だと思う。

「科学や技術は人間の福祉のためにのみ用いるべきである」と有馬氏は述べられているが、そんなことは判っているが、アメリカは勝ちがわかっている勝負でも早く終わらせて 米兵の損耗を少しでも減らそうと考えたのだろう 決してアメリカの肩を持つわけではないが。 

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