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(257)お正月

 「1.もういくつ寝るとお正月 お正月には凧あげて コマを廻して遊びましょう 早く来い来い お正月」

 作曲者・滝廉太郎の母校、麹町小学校の児童が歌う唱歌「お正月」を聴いた。千代田区の主催によるボニージャックスのコンサートがカザルスホールで開かれたので、女房と聴きに行った。その前座で子供たちが千代田区にゆかりのある滝廉太郎と山田耕筰の曲を元気な歌声で聴かせてくれ、嬉しくもまた懐かしい思いがした。お正月はいいなァと思う。

 子供の頃に、クリスマスでプレゼントを貰った記憶もあるが、やはりお正月の方が嬉しかった。お年玉を貰い明神様に行って、この時だけは買い食いも大目に見られていた。親は衛生上の観点からか、駄菓子屋や紙芝居のお菓子の買い食いにはうるさかった。「お菓子を食べたいなら、ウチにあるものを食べなさい」というのだが、子供は友達と家の外で駄菓子を食べたいのだ。

1957 伊東深水 「湯気」1957年頃 戦後まだ僅かの頃は、クリスマスどころの騒ぎではなく、サンタさんは来なかった。妹や弟が母に「どうしてウチには来ないのか」と詰め寄ると「ウチは門徒だよ!」ピシャッと断られていたのを思い出す。それでも 正月にはうちじゅうの者が晴れ着を着て、「おめでとうございます」と改まった挨拶をし、お屠蘇を祝い、お雑煮を食べた。戦後のバラックの家でも、疎開しておいて焼失を免れた金屏風を開き、床の間に越堂の日の出の掛け軸を下げ、店には聖徳太子の軸物にお供え餅を飾った。

 父は凧揚げが上手で、明神坂の途中にあった凧やさんから凧を買って来ては夜になると、尻尾をつけたり糸の調子をみたりして楽しんでいた。普段忙しそうに働いている親が一緒に遊んでくれるのは、子供にとって うれしいものなのだ。今と違って、その頃は第一と第三の日曜しか休みが無いから、大人はお付き合いで忙しくて、とても子供となんか遊んでいられない。だから親戚のおじさん、おばさんからお年玉を頂くのも嬉しかったが、親が遊んでくれたのも嬉しかった思い出だ。

 2007_043 今は5人の娘と4人のつれあい、孫7人が集まってくる。お年玉も間違えないよう名前を書いて用意しておく。明神様に行ってから、百人一首やトランプ、花札と大勢で遊ぶ。チビが大きい者に負けまいと真剣になってゲーム遊びをするのを見ているだけでも面白い。「もういくつねると お正月 お正月には毬ついて 追羽根ついて 遊びましょう 早く来い来いお正月」

 今の子は毬もつかず、羽子板の無いうちも多かろう。麹町の子供たちは情景を想像できずに歌っているのだろうが、私には鮮やかに蘇ってきた。だが近所には子供の声も、若い男女の声もない。マンション住まいが多くなって、横丁や露地で人を見かけなくなってしまった。私は来年も一杯やりながら、年賀状の整理をしつつTVで箱根駅伝の応援をしていることだろう。

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(256)サンタクロースへの手紙その後

Photo_2 2006年12月8日に(102)「サンタクロースへの手紙」として孫6号の話を書いた。その時の2年生が今年は4年生、今度はサンタさんへのお手紙をメールで書いたという。ローマ字で書いて変換するのだから、馴れていなければ容易ではない。プレゼント欲しさの一心からだろうが、「パソコンはどうも」と敬遠しているオジサンにとっては驚きである。

サンタ様

メリークリスマス サンタさん                                      

今年は受験をすると決めてから勉強をすごく頑張りました。だからファイナルファンタジー レバナントウイングをください。でも そのゲームは少し古いので、あるかどうかわかりません。なので なかったらクロントリガーというゲームをください。お願いします。

来年も勉強頑張ります。サンタさんも頑張ってください。 ○○○○より   

 小学校2年生の時のオネダリもゲームのソフトだった。そのお手紙の発送は母親任せだった。サンタさんの住所を書いて切手を貼り、ポストに入れるまではお母さんがやってくれて、お手紙はサンタさんに届くものだと信じていたのだろうが、メールでお願いとなれば、メールアドレスを書き込まなければ届かないと知っているはずだから、今回はどうなったのか娘3号に聞いてみた。

001 『それは・・・ とりあえずお母さんの会社のアドレスに送信してくれれば、お母さんが英語に翻訳してサンタさんに転送してあげるよ。って言いました。まぁ、サンタさんの存在からしてもう信じてるかどうかはわからないけど。プレゼントもらう為に親子での駆け引きが・・・happy01

サンタさんはレバナントウイングを既に購入済みだそうだが、最近になって孫6号がおねだり品に迷いが出たようで悩んでいるらしい。サンタさんは今更の変更は認めないと言っている。present

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(255)日記帳

12_009 加山又造「中央公論」表紙絵12月号(1975) 高橋書店の「大型5年横線当用新日記2004-2008」を使っている。以前は3年連記のものであったが、ブログも始めたし、業界の名誉職や会社の仕事からも手を引いたので、記録する事も少なくなりこれで充分だ。「何のために日記を書くのか?」と問われると、満足なことも書いていないので困ってしまう。始めたことだから止められない と意地で何となく書き続けているというのが正直なところだ。今年も残りすくなになったので、新しい5年連記2009-2013を買ってきた。

 1日1頁に付録の地図や年表が付いていて、ハードカヴァー、ケース入りだから、使用済みのものを書棚に並べると大変立派だ。中身は大した事もないから格好で脅かすとなると、金融危機とやらが来たら、いっぺんに統合された金融機関のようなものだ。信用が大事な仕事だから、実態は大した事もないのに、一等地の表通りに店舗を構え、建物や押し出しだけでも立派にしていたのかな?と勘ぐりたくなる。

 とんだ八つ当たりだが、これから5年の日記を買ったからには、元気でボケずに書き続けて行きたいと思う。果たして出来るか?と考える歳になった。とりあえず来年はどういう年になるのだろう?

 10年前の1998年12月20日は日曜日だった。天気晴れ、風寒しとある。この日の日記を以下に書き移す。

 Photo 午前中 例によって決まった番組を見る、「新題名のない音楽会」に出演したゴスペルのチームは中々良かった。この番組はいろいろと教えてくれる。午後から佐藤君ら昌平コミスクのメンバーと、1月30日のシニア会第1回定演の打ち合わせ。4時過ぎに 高野台の葬祭場へ彰君の通夜に行く。(注記 妻の姉の次男)奥さんは若く、長男、長女、何れも幼く、昭和28年の我が家を見るが如く、耐えられない。明日の葬儀は行かないと言って、女房に叱られた。帰途 池袋西武ビルの藪伊豆で軽く一杯やり、蕎麦を食べて帰宅。

 と こんな具合で、次いで99年のこの日は?と逐年でその日が思い出されるので面白い。楽しい事ばかりは無いが、時は悲しみを癒してくれる。今年も残り少なくなった。元気で越年したいと思う。

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(254)先端科学の社会性

12月3日にDscf0009 半蔵門で昼飯を食う会があり、天気が良いのでデジカメを持って出かけていった。その帰り、久し振りに代官町の土手を歩き、この写真を撮った。松の幹が、ちょっとひねった腰のようで艶めかしい。heart04脚と見ては太すぎるし、そうみたら、見上げるのを遠慮せねばならない。木の肌が陽に映えて眩しかった。

 11月22日にグリークラブの百周年記念演奏会があり、翌週の30日に現役の第56回定期演奏会があった。その間の26日に私たちは母校からの依頼を受けて、大隈講堂の特ステに出演した。noteそれは 第5回公開シンポジウム「先端科学の社会性」のアトラクションとして、講演会の後の余興みたいなものだったが、稲門グリークラブの「スペシャルコンサート」として、演奏曲目やクラブの紹介やらが書かれているリーフレットが、会の小冊子に添付されていたのには驚いた。ちょっと嬉しい感じだった。

講演が長引いたので予定していた曲の全てが歌えず残念だったが、それより4 も折角の機会だから講演も聞きたかったのだが、控え室で練習したり待たされたりして、基調講演は渡辺淳一氏の「鈍感力」しか聞けなかった。その講演も面白かったが、加藤諦三氏の「先端科学・社会・心」と海堂 尊氏の「先端科学はジャックナイフだ」という話もパンフレットを読む限り面白そうなので、聞けなかったのは残念だった。     写真撮影はは中尾 駿君 「大隈講堂の演壇」

その会は大学の「先端科学・健康医療融合研究機構」の主催であった。詳しい事は判らないが、東京女子医科大学と早稲田大学が連携して、最先端の医療現場における様々な問題の解決法を研究する組織らしい。将来、それを目的にした大学院が設立されるらしいが、医学部の無い早稲田がそうした切り口で、女子医大と提携して医療分野に貢献する事が出来れば結構なことだと思う。

Dscf0013この写真も北の丸公園で撮った。昼ひなか ゆったりとベンチに腰をかけておられる方、高齢者のグループ、ジョギングする若者と様々だが、空いていて陽射しも暖かく気持ちが良かった。だが近頃は、社会も経済も物騒になってきた上に、政治も混乱しているから、これからどういう世の中になるのか見当が付かない。そして、非社会的な行動をする人たちが増えてきたから、世の中が益々暮らしにくくなってきている。

科学技術の発展は暮らしの豊かさを齎してくれたけれど、私達が失ったものも多い。不況が深刻になれば、その面でもなお暮らしが悪くなるのではあるまいか?反社会的な行為は法により罰せられるからハッキリしているが、非社会的な行動は、本人にその自覚が無いのだから始末が悪いし、減る事も無いだろう。今日紹介した大学の新機構の略称はASMeW(アスミュー)という。「明日見ゆ」との掛け詞でもあるらしい。良い明日を夢見て研究に励んで戴きたい。

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(253)神頼み?

Dscf0118  ブログを始めたばかりの2006年6月、「(18)私の散歩道 その1」で、取り壊しが始まった文化学院の懐かしい校舎を惜しむ話を書いた。「中学、高校、大学と 男の世界から飛び出たことのなかった私にとって、蔦の絡まる校舎のアーチをくぐって入った文化学院のキャンパスは 異次元の世界だった。カラフルな服を身にまとった女子学生が眩しかった。夏期講習で高校の時は英語を、大学時代はフランス語の講座に通った。講義などはどうでもよかったのだ。」

 既に今年の4月には出来上がって、学校が始まっている。エントランス付近はいい雰囲気で、昔の面影というか 空気が残っている感じだから 校舎の中に足を踏み入れてみたいと思うのだが、用も無いのに お爺さんがノコノコ入って、あたりをキョロキョロ眺めていたら、不審がられること請け合いだから出来ず仕舞いでいる。

Dscf0116_2 「(20)私の散歩道 その3」で書いた神田女学園も4月の新学期に合わせて竣工した。同じくそこで紹介した浜田病院も写真のように、駿河台ファーストビルと衣替えして完成し、産科はその一部に入った。出生率の低下は、病院の経営を多角化させる。2年前に着工した幾つかのビルはあらかた完工したが、私の散歩道に槌音は絶えない。今も、草月会館の先で鴻池ビルが駿河台プロジェクトとして建替え中だし、その斜め向かいにあった蔦に覆われた「御茶ノ水のキリストの教会」が、千代田区と共同の建築で福祉センターを作っている。その裏通りには中央労働金庫本店がこれも建替え中だ。猿楽町の集英社のビルは取り壊され広い空き地となった。その内にマンションになるらしい。耐震性やアスベストの問題で、戦後早い時期に建てられたビルが続々と建替えられているのを見ると「福井ビルはどうなんだ?」と考えさせられる。

Dscf0123 最後にご紹介するこの小さなお社は、駿台1号館の敷地の裏手に鎮座ましましている神社だ。何をお祭りしているのか掲額がないから判らない。近寄ってみるとちゃんと御神水が供えてあったが お賽銭箱は無かった。駿台とは有名な予備校で、最近8号館を新築し、続いてこの1号館が作り直された。学力向上を願う受験生が参詣するとは思えないが果たして誰が拝むのだろう?予備校生の受験合格を祈る先生方か或いはご父兄用だろうか?これも私の散歩道の駿河台にある。

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