2016年4月 8日 (金)

(567)さくらさく

640x448 この写真は去年連雀で撮ってもらったものだ。 連雀とは週2回入浴、昼飯に通っているデイケアセンターのことだ。 朝9時半に行って、午後3時半におやつをいただいて帰ってくる。 このところ、寒かったり気温が高くなったりして不安定な天気が続いていたが、流石に選抜高校野球が始まるころになると天気も安定して、決勝戦は智弁学園と高松商業の組み合わせとなった。 家にいるときはベッドの足元にテレビが置いてあり、毎日観戦していたので勝ち上がってきた両校の選手が顔馴染みになった。 優勝校の選手には祝杯をあげるのだが惜しくも敗れた高松商の選手の顔が気の毒で見ていられなかった。

 2016040613070012月14日に志木に住む節子の兄が亡くなり先日納骨を済ませた。私は葬式にも行かれず不義理をしたが、今生の別れに参列できないことは誠に残念で、女房にも顔向けできない。 葬儀にも参加しないということは、社会人として半人前で義兄に申し訳ない。 

そんな塩梅で、さくらコンサートにも出演はかなわず、当日は何とか聞きに行った。 「第9回さくらコンサート」 この会場となった昌平小学校の多目的ホールは音響がよく、婿さんの所属するコミュニティースクールの協力を得て9回も継続している。入場料はワンコインでその総額を千代田区のさくら再生基金に寄付している。 そこで我々シニア会が歌い、ゲストも呼ぶ。今年はチェロとピアノのデュオであった。 音大卒のプロのアーティストでも発表の機会は多くはなく、薄謝で出演を引き受けてもらった。 地元の人が普段着で楽しめるコンサートである。 開場の際に千代田区の公園課の方が、継続して寄付をしていることに感謝の言葉を述べた。 「継続は力なり」というが、寄付の総額も約100万円となり、長きにわたって千代田区に貢献できていることを嬉しく思う。

 シニア会は久石譲作曲の「StandAlone」を演奏した。この曲はNHKの大河ドラマスペシャル「坂の上の雲」のテーマソングで森真季が歌っているものを男声合唱にアレンジしたものだ。 丁度最近「坂の上の雲」のビデオを借りて見たところだったので、あれこれと感じるものがあった。
 昨年の、大河ドラマの「花燃ゆ」でも描かれていたが、明治の新政府になってわずか20年という短い間に貧しい日本が軍備を整え、大国ロシアとの戦争に勝利したのだから、当事者の苦労はいかばかりであっただろうと思われる。今日の日本があるのは、そういった先人の苦労があったからこそであるのに、その歴史に学ぶことなく、次はアメリカと戦争をしてしまったというのは、
それなりに日本の置かれている立場が難しくなっていたのだろうと思われるが、とても残念なことだと思う。

2016年1月20日 (水)

(566)大河ドラマ

 去年一年続いていた「花燃ゆ」が終わって、今年は「真田丸」が始まった。真田幸村の生涯を描いた作品だと思われるが、脚本が三谷幸喜なので面白かろうと期待している。関ヶ原の合戦の際、徳川秀忠の大軍を中仙道の上田で待ち構え、さんざんに悩ませた活躍や、忍者など子供の頃からお馴染みのキャラクターも登場するはずだ。

 昭和61年に、同じNHK大河ドラマとして放映された「真田太平記」では、丹波哲郎が真田昌幸を演じたが、この時幸村役であった草刈正雄が、今回は昌幸役となっており、時の流れを感じる。また、同じく太平記の方では、のちに難しい立場となる真田信之を渡瀬恒彦が演じたが、今回は大泉洋と知り、去年の前半の朝ドラでちゃらんぽらんな親父役の印象が強いだけに、三谷幸喜が信之をどんな風に描くのかがとても興味深い。

 P1144068話は変わるが、病状が進んでテレビを見る時間が多くなり、レンタルDVDで三国志(48枚)を見終え、今は「翔ぶが如く(原作・司馬遼太郎、脚本・小山内美江子)」を見ている。「花燃ゆ」と同様に、幕末期が舞台になっているが、西田敏行の演じる西郷隆盛や大久保利通らが明治新政府の立ち上げや運営に苦労した様子など、知識のみであった歴史の裏付けを人間ドラマとして見ると、改めて感動を覚える。

「花燃ゆ」は、吉田松陰の妹が主人公で長州藩の歴史をなぞって展開されたが、「翔ぶが如く」は薩摩藩側から描いている。西郷隆盛は私学校に集まった不満士族の一派に担がれて西南戦争の首謀者となった訳だが、新政府は、幕府は転覆させたものの、財力がない。新しく興そうとする各種の事業に資金を充て、もはや不要となった武士を生活の基盤もなく放逐すれば、それらが不満氏族となっても無理もない一面もあっただろうと思われる。

 西南戦争で、最も激しい戦闘となったのが田原坂なのだが、それを歌った民謡がある。

「雨は降る降る、陣羽は濡れる。越すに越されぬ田原(たばる)坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな 美少年」
と謡われた。

 西南戦争により西郷は切腹し、翌年には大久保暗殺されてしまった。

 1月10日から初場所が始まった。琴奨菊が好調で今のところ10連勝。優勝はどの力士になるか解らないが、白鵬に勝った力士が優勝になると思われる。

 

2015年12月24日 (木)

(565)当番と下見

Pb073970 左の写真は昌平橋の西詰にある花壇で、私が町会長を務めていた時に設営した。「アダプトシステム」という聞きなれない名称の契約を千代田区役所と交わしたので、年に2回、春と秋に花を給付してくれる。

 アダプトシステムとは、英語で養子縁組のことを意味し、国や自治体が管理している道路や公園などの一部を地域の方々や企業・団体が引き受け、花壇の管理や清掃などを通して、環境美化活動をする制度です。

 町会の婦人部の皆さんが、総出で植え替え作業や日々のお世話をしてくれているが、その作業を通じて、皆さんが地元に何らかの貢献をしているという自覚と愛町心が生まれているのではないかと思っている。

 一か月交代のお世話当番が、水やりや清掃をしている。現金なもので、晴れの日が続くと、たびたび水やりに行かねばならないので、当番の時は雨が降ると好都合と思う。

 話は変わるが、11月29日は娘二号の結婚記念日だというので、挙式をした上野精養軒にランチに行こうと連絡があった。私は連れて行ってもらえるのならどこでも良いのだが、そういえば来年の6月5日が亡き母の七回忌にあたり、法事の場所を探しているところなので、下見大好き人間としては、精養軒も良かろうかと、下見もかねて、車で出かけていった。ところが、精養軒は大変な混雑で、受付で「一時間半待ち」と言われて恐れをなして退散し、どこかランチができるところはないかと立ち話。湯島の天麩羅屋「天庄」にここしばらくご無沙汰していたことを思い出し、そちらに移動した。幸い、そちらは空いていて、久しぶりに天麩羅定食を堪能した。亡母は、こちらの天麩羅が大好物だったので、私の兄妹も母に連れられてよく通っていたものだったので、法事もこちらが良いのでは…と思い立ち、話をしてみたところ、空いているとのことだったので、早速予約を入れてしまった。兄妹一同の他に子供や孫を含めると20人以上の大人数になるので、座敷の他に揚げたてを目の前で供していただけるカウンター席も含めて全館貸切で予約を入れてしまった。

 

 

 

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2015年11月22日 (日)

(564)河口湖一泊旅行

Photo 11月15~16日に河口湖に連れて行ってもらった。心配していた天気も回復して暖かく、私の体調も良かったので、楽しい旅行ができた。

河口湖には学生時代のグリークラブの合宿、OBになってからの合宿などで何度か訪れているが、温泉が出るようになってからは初めてである。宿は富士レークホテル。バリアフリーになっていて車椅子のままで移動でき、トイレも多目的用に広くつくってあった。大浴場には入れなかったが、個室の風呂からは富士山が見えて、大変良かった。かけ流しの湯に浸りながら富士山が見える贅沢を堪能した。家族風呂を予約しておいたので、娘たちにリフトを操作してもらい、大きな風呂にも入ることができた。夕食は個室で家族だけでゆっくり過ごすことができた。

Photo_2 同行者は女房と娘2号夫婦と娘4号だった。普段介護で世話になっているのでそのお礼の意味で連れて行った…と書くと、ずいぶんと大仰だと思うが、私の具合が悪くなってからは、なかなか旅行に出ることもできなくなっている。今回も、もし私の体調が悪くなったら、介護人は私を残して家を空けることもできなくなってしまうので、旅行がおじゃんになってしまうから、責任が重い。

往復、中央道を利用した。朝10時ごろに出発したのだが、道が空いていたので、12時には河口湖に到着してしまった。昼食には「ほうとう」をいただいた。

Photo_3 食後、かつて合宿で何度も行ったサニーデリゾートに立ち寄った。

最近、長時間座っていられないので、夕食時に一杯飲むと、途中で一休みしないと飯が喰えないおそれがあるので、アルコールも控えるようになってしまったが、今回は頑張ってビールから日本酒まで頂いた。

あくる日は山中湖を経由し東名道を利用して帰ってくるつもりだったのだが、女房が好きな与勇輝のミュージアムに立ち寄り、懐かしい人形たちに再会した。人形たちを鑑賞してからレストランでワインの試飲で新酒をいただいてきた。要介護5の病人が旅行に行ったり、ワインを飲んだりなど不謹慎だと思われるかもしれないので、この事はナイショにしておこう(笑)

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昼食は談合坂のレストランでハンバーグを食べ、東京に戻ってきた。戻ってきた時は、秋の陽はつるべ落としの如くに落ちて、暗くなっていた。




車で連れて行って貰えれば、かなり遠くでも行けそうだということが解り、娘たちも誉めてくれて、また行こうということになった。大蔵省が頑張って元気でいないと行かれないので、みんなが「頑張った」と誉めてくれるのだろう。

2015年11月21日 (土)

(563)文化の日

 文化の日に、通っている連雀でヘルパーさんから「文化の日は元は何の日だったのでしょうか?」という質問を受けた。私たち年寄りは『明治節』と覚えている。私たちの子どもの頃は、登校して明治節の式典に参列し校長が読む教育勅語を頭を垂れて拝聴し、明治節の歌を歌って帰って来たことをよく覚えている。

 この日は、もともとは明治天皇の誕生日である。

一 亜細亜の東 日出づる処 聖の君の現れまして
  古き天地とざせる霧を 大御光に隈なくはらい

  教あまねく道明らけく 治めたまえる御代尊(おおみこと)

戦後になって『文化の日』と改名された。なぜ『文化の日』となったのかを、ウィキペディアで調べてみると、

1946年(昭和21年)に日本国憲法公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。日本国憲法は、公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっている。」

とあった。今は文化勲章の親授式と文化功労者の発表がニュースになるので、そういう日と記憶されているが、特に文化的な祝日という印象ではない。

2015年10月31日 (土)

(562)秋深まる

 今年の秋は天気が良Pa243936_480x640く晴れの日が多い。 先日、寝ているのも飽きて散歩に出た。 散歩に出るといっても、最近は歩けないので車椅子を押してもらう。女房も80歳の高齢になったので、坂道は力が無くて乗ってる方も不安だから、娘の暇な時でないと散歩に出れない。 
 
 家の近所に湯島聖堂と神田明神がある。湯島聖堂の縁起を読むと、上野寛永寺の傍らからこの地に 五
代将軍綱吉のころ引っ越してきたらしい。江戸幕府の学問所として現在の東京大学のように官立の学業所のような存在であった。 文京区のふるさと歴史館の展示をみると、元禄時代にこの地に創建された湯島聖堂は、今の医科歯科大および順天堂病院の敷地まで広がっていたようだ。 私の子供の時代は東京医科歯科大学は空き地だった。 私の親父の時代は「桜の馬場」と呼ばれていたようだ。  明治になって、師範学校(現 筑波大学)が作られた。したがって筑波大のOB会は茗渓会と称するが、江戸城の外堀の役目をする神田川が中国の茗渓の景色によく似ているというので この名がつけられた。 山形に旅行をした時現地の藩校の致道館に湯島聖堂の写真が展示してあったので嬉しかった。

 今は立ち入り禁Pa243945_640x480_2止になっているが、戦争中は外苑も整備されていたので、私の子供時代よく遊びに行った。 戦後のバラック時代、家が狭いのでよく大成殿の裏の空き地に行って、小説を読んだものだ。 「嵐が丘」や「狭き門」をここで読んだ記憶がある。 書斎がわりにおせわになった

 神田明神前の交差点を渡ったところに芸そう堂という版画屋さんがある。会長の婿さんが新築のマンションに移ったので、お祝いに伊藤若沖の版画を買ってプレゼントした。たまたま朝日新聞に10月26日夕刊に若沖の天井画を版画にして展覧会を開くという記事が出ていた。タイミングとしては絶好の時期なのでこの新聞も贈り物と一緒に添付して差し上げた。京都の信行寺という寺の天井画を紹介している。

 

Photo伊藤若沖
京都高倉錦小路の青物問屋の長男に生まれ、15歳頃から絵を学び、40歳で弟に家督を譲ると画業に打ち込んだ。動植物を写実的に描く一方、無数のマス目を絵具で埋めていく「升目描き」を用いたり、点描やにじみを生かす水墨画を生み出したり、様々なアイデアを駆使した。


 

2015年10月21日 (水)

(561)テレビ




 動けなくなってからテレビを見ることが多くなった。 16日から日本オープンが始まったので金曜日の予選からテレビで観戦した。 結果的には小平智が初優勝したが前年優勝した池田勇太と日曜日はマッチプレイのようになってエキサイトし、小平の優勝となった。

 ベッドで寝ながら見られるので、いままで溜めておいた録画も見る。先日は、アニメの「かぐや姫」を見た。ラブロマンスとして仕上げられているが、私の記憶では月に戻ったかぐや姫に、月に一番近い富士山の上に登ってラブレターを焼いて、その煙が今も立ち上っているという結末になっていたはずだ。そのアニメ映画で、その部分をどう表現するのか待っていたのだが、そのシーンはなかった。私としてはそのシーンが最もロマンチックだと思うのだが。
それと、当時は富士山が噴火をしていたことも解る。

 山田耕筰のドキュメント風のドラマが放映されて、作曲家として有名になる前の足跡を知ることが出来た。 戦争中は高名な音楽家として軍部に利用・協力させられ、ご苦労されたようだ。山田耕筰は芸大の声楽科に入学した。当時は作曲科がなかったのだそうだ。主役の山田耕筰は石丸幹二(劇団四季)が演じた。毎年訪れていたニューイヤーオペラコンサートに、今年は行かれなかったので、先日その録画を見たときに、この石丸幹二が司会者をやっていたので、縁があるなあと思った。

Pa193919_530x640 この写真は劉備玄徳の木彫である。 1998年4月に中国を旅行した時に求めたものである。土産物屋に三国志の英雄豪傑(関羽・張飛・諸葛孔明・曹操等)が並べられていたが、私は劉備玄徳の木彫しか買ってこなかった。今にして思うとそれ以外も求めておけばよかったと思う。

 三国志は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180~280年頃)の興亡史である。魏・呉・蜀の英雄豪傑が活躍した話である。私は、高校生の頃にこの話を読んで感動した覚えがあるので、暇に任せてこのドラマを見ることにしたが、DVDで48枚もあるから、恐れをなしてNHKで放映したDVDを見たが、そちらはストーリーが簡略化されていて面白くなかったので、一念発起して48枚の方に挑戦することにした。

 中国が威信をかけて制作した作品らしいが、48枚というと、生きているうちに見終えることができるかどうかがわからない。だが、楽しみが増えて寝ていることも苦にならなくなった。

 

2015年9月11日 (金)

(560)連雀一年

 

神田連雀にデイサービスのお世話になって一年になった。そこで去年の日記を見てみると次のように書いてあった。

 

「8月5日 火曜 晴れ 今日から連雀のデイサービスに初参加、朝9時半から夕方5時半に帰るまでデイサービスのお世話になる。金曜のリハビリデイサービス神田でお会いする方が2名おられた。家から迎えの車に各家の人達を迎え連雀に着くまで45分もかかり疲れた。帰りも同じでこのような調子が続くのでは困るので、様子を見に来た川島さんにケアマネの渋谷さんに事情を話し改善するようにお願いした。昼食は美味しかった。入浴のサービスは若い女の子でちょっと恥ずかしいような気分だった。一橋中学の生徒が実習で老人の見舞いに来ていた。その中に堀田さんがいた。藪そばのお孫さんのようだ。久しぶりに私の介護から解放された節子は張り切って働いたらしい。休めばいいのにと思う。そこが節子の節子たるゆえんである。」 

 

Scotthall_pic1_2 以前は週に1回だったが、今では1回増えて火曜と木曜にお世話になっている。 病気が確実に進行し、要介護度が3から5になり全員で行う体操ができなくなった。施設に行くとまず、お茶を飲みトイレまで歩くように心がけてヘルパーさんに付き添って行ってもらう。お茶が終わるとベッドに横になる。昼食もヘルパーさんに食べさせてもらう。午後に入浴。3時におやつをいただき、迎えを待つという一日を過ごす。

9月10日(木)は業界の先輩M.Oさんのお通夜があり、連雀から帰ってから喪服に着替えて娘の運転で平和島の斎場まで出かけて行った。この日は午前中にグリークラブの先輩の告別式が早稲田奉仕園のスコットホールで音楽葬として営まれるとのことなので本当は私が行きたかったのだがスコットホールは車椅子では入場できないので断念し、節子に行ってもらった。この日は台風18号が前夜から多量の雨を降らし、翌日には鬼怒川が決壊して茨城県に大変な被害をもたらした。(関東・東北豪雨) アメリカの9月11日は大変な記念日だが日本もこの日は忘れられない日となった。  

9月に入って暑かった夏がウソのように涼しくなり、大相撲の秋場所も始まった。白鵬が2連敗して休場し、優勝が分からなくなった。優勝争いが面白くなったが、白鵬あっての鶴竜であり、大関であるので、気の抜けたビールのような場所となってしまった。長年場所を務めた若の里と旭天鵬が引退した。

Dsc_1278  今年は秋の9月に旗日が続いてシルバーウィークという名称が付き、連日好天に恵まれて、行楽地は人出があったようだ。私はどこへも行かれないので、墓参りに行くことにした。 墓地はひばりが丘にある東本願寺墓地。 娘4号の運転で連れて行ってもらった。その日も良い天気で秋の空は高く、うろこ雲も綺麗で心地よく、なんとなく「千の風になって」の歌を思い出した。 やがてこの墓に入るのかと思うと、その日がわからないだけに、これから迎える日々が恐ろしくもある。

2015年8月31日 (月)

(559) 夏 終わる

 今年の夏は湿気が多Image6くてしのぎにくかった。連日のように高齢者の熱中症で入院したというニュースが報道された。

 高校野球が終わって今年の夏も終わった感じになる。 7月に入って大相撲名古屋場所が始まり白鵬の優勝で幕を閉じ、引き続き高校野球100年の節目の大会が始まった。 このところ立ち居振る舞いが不自由になったので、勢いテレビをみる時間が長くなる。 高校野球は地方予選から見ていたので甲子園が始まってからは毎試合見るようになってしまった。 西東京の代表は早稲田実業、東東京代表は関東一高、 順調に勝ち進んできたので両校が決勝で当たれば良いと期待していたが、残念ながらそういう具合には行かず、決勝戦は宮城の仙台育英と神奈川の東海大相模の組み合わせになったが、投手の疲れが見えた仙台育英が敗れた。 

 Dsc_1265_480x640今年も30日の午後に第18回昌平音楽祭が開かれた。 私は出演出来なかったが、全体合唱の「ふるさと」は皆さんと一緒に歌わせてもらった。練習場に使わせてもらっている昌平小学校の多目的ホールが音響がいいので、地元の合唱団などをお誘いしてコンサートを開いてから18年になる。 歌ってからそこで打ち上げをするというスタイルで始まった。当初、孫3・4・5号が小学校の金管バンドに入っていたので、おじいちゃんと孫が同じステージに載るということで私の家族が受付から進行まで引き受けて、皆でくたびれたことを思い出す。 その金管バンドも今年は87名の参加者があり、ハーモニーも厚くなって上手になった。 18年という年月は小学生が社会人となり、シニア会のメンバーは60歳の者が78歳になってしまう。 年寄りにとっては残酷なものだ。 私も歌えないことが残念だったが、打ち上げの乾杯だけして帰ってきた。

2015年8月 1日 (土)

(558)奥の細道

Photo 【与謝蕪村が描いた画集「奥の細道」の那須湯本のかさね】

 先日 義弟の山崎さんが「奥の細道」のCD(新潮社発行)を持っきてくれた。私の両手がきかなくなって読書が出来ないのでCDなら聞けるだろうと、わざわざ買い求めてくれて 届けてくれたのだ。奥の細道の旅行が終わって12回に渡って書き溜めたブログをまとめようかと話していたので、参考になるよう届けてくれたようだ。実は準備は終わっているが 作業を再開するとおおごとになるので手を出しかねていたが、病状が悪くなる一方なので そろそろタイムリミットかと思い、着手することにした。 CDは久米明が朗読し、竹西寛子さんが解説している。 竹内さんは日本芸術院の会員で、文化功労者であるが、解説をうかがうと内容は素晴らしいが、その口調は実にゆったりとしていて、聞いていると睡魔に襲われる。 久米明は原文を朗読し、さすがに巧みであった。 

 このツアーは2010年9月29日を第一回として芭蕉ゆかりの深川を訪ね、都合16回32日間を要して芭蕉が歩いた奥の細道を私たちも辿るというものであった。 白河の関までは日帰りのバス旅行であったが、二本松からは一泊ないし、二泊の旅行であった。ブログでこの旅行のことは書いているが、今回CDをいただいたことでまとめることにした。 今になってみるとこの旅行もギリギリ間に合ったような気がする。今だったらとても参加する意欲がないし、参加不能な体調になってしまった。芭蕉と同じように人生最後の旅行ができてよかったと思う。 2011年3月に東日本大震災が起こり旅行が中断され、半年ほど間が開いてしまった。  

 芭蕉は1689年3月27日に弟子の曾良を伴って江戸深川を発ち、全行程約600里(2400キロ)を日数約150日をかけ東北・北陸を巡り1691年に江戸に帰った。「おくの細道」ではこのうち 武蔵から下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して、旧暦9月6日に美濃大垣を出発するまでが書かれている。 私たちの旅はこの芭蕉の旅を忠実に辿ったものだ。当初、歌枕を訪ねる旅であったが、平泉で義経の最後を弔ったのがクライマックスでその後は芭蕉の俳句のエッセンス「不易流行」について書かれている。 

 尾形 仂さんはその著書『「おくの細道」を語る』(角川選書)の中で次のように書いている。  「”不易流行”の“流行”とは変化すること、“不易”とは永遠不変ということ。不易流行とは、変化することこそは不変の原理である、流行と不易とは一つのものである、という考え方で、万物流転、旅人のようにたえず移り動き変化してゆくことこそは、その宇宙を律する恒久不変の原理だということは、言葉を換えて言えば、“不易流行”の理念を打ち出したもの、ということになります。」

 

 

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