(303)ノルマを果たす

Photo 那智の瀧 朝起きて新聞を取りにでる。今朝(6日)の毎日新聞の一面のトップ記事は、松井秀喜選手がワールドシリーズの最高殊勲選手に選ばれたというニュースだった。スポーツ新聞じゃァあるまいし、トップ記事が「これかよ」と思ったが、ワールドシリーズが終わったのか と気付くと同時に日本シリーズはどうなったのかな?と先ずスポーツ面を開いた。矛盾した話だが、この数日テレビも新聞も見ずに過ごしたから、世の中の出来事と縁が切れていた。

3日の朝6時半 東京駅に集合し、5日の夜11時過ぎに帰ってきた。今日の午前中に 慌しかった2泊3日の旅の写真をパソコンに取り込み、午後は新日本フィルのコンサートを聴きに行き、今戻ってこれを書いている。明日の午後はお付き合いのあるA・コロナ男声合唱団の発表会を聴きに行き、夜はシニア会の練習、明後日の午後も これまた関係がある いそべとし記念合唱団の演奏会を聴きに行かねばならない。

Photo 弥彦神社の御神灯 これで3日から8日までの毎日お出かけとなるが、実はその前の10月30日~31日に新潟へ旅行し、翌1日がシニア会の練習、終わってから一杯飲り、2日に浜野GCへゴルフに行った。従って10日間ぶっ続けで遊ぶことになる。今日は流石に疲れが出たか 弱点の右腰に痛みが走り にわかに立居振る舞いに注意が必要となってしまった。取りあえず膏薬を貼って様子を見ている。旅行の話などは改めて書くことにして 自ら課した土曜日更新のノルマだけを果たすことにした。

 私は自宅で毎日、会社で日経を読んでいるが、これだけ家を明けると新聞が溜まる。朝刊、夕刊と目を通すのが大変だ。日頃 丹念に読んでいる方なので、一遍に片付けようとすると時間が掛かって疲れてしまう。特に日経はエッセイが多いし、それが面白いから とても纏めて読みきれない という訳で明日も 日付けが遅れた新聞を読むことになる。

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(302)30年前の旅行

 3 先日パリのレストランの話を書いて ふと思い出し、昔のアルバムを拡げてみた。初めてパリを訪れたのは1979年の4月中旬だった。その時 こんな手紙を書いている。

 オペラ座が写っている絵葉書に「パリも快晴で暑く、下着は半袖スポーツシャツで市内を観光、イースターで道路は空いていますが、広場や有名な建物があるところは、ヨーロッパ各地から来た観光客で一杯です。オペラ座の内部を見学だけで入ったところ 余りの素晴らしさに驚嘆、16日にプレミア付きで200フランを投じて「ラ・ボエーム」を見る(聴く)ことになりました。幸運に感謝しますが、リドのキャバレーのショーは断念。17-4-79」

 オペラのプログラムPhoto 次いでルーヴル宮とその庭園が写っている絵葉書に翌日の報告をしている。日記代わりに毎日手紙を書いていたようだ。「今日は肌寒く、広壮なルーヴル宮はこの葉書のように まだ花は咲いておりません。半下着で出て寒い思いをしました。こちらは4月からサマータイムですから余計に時間的にも 気温が朝は低いわけです。さて 今夜のオペラは正に感激そのもので、思わず涙がにじみ出ました。貴女だったら恐らく泣き出したのではないかと思います。ホテルに戻りワインを飲みながら、Mさんと生涯の感激の一夜を語り合いました。明日は企業訪問2ヶ所をしてロンドンに発ちます。」

 この旅行は自動車整備業界の視察旅行なので、主に各国の首都を巡り、観光地は少なかったが、途中下車などして、その頃ケルン歌劇場の第1バス歌手として活躍していた学友O君を訪ね、ご馳走になったり、ツアーでは行かぬところなどに案内してもらったりした。彼は出演していなっかったが、「椿姫」が上演中だったのでヨーロッパで始めてオペラを見た。

6 旅行の話を続けてもキリがないので、最後に2枚の写真を載せる。1枚目はケルン男声合唱団のクラブハウスと乗せてもらったベンツ。中庭があって練習後にビールなどを飲めるようになっている。正に理想的な環境で「今に俺達も東京に作りたいな」と語ったものだが 遂に実現は出来なかった。だが 地理の便がよく、音響もよく 格安の練習場を借りて、練習終了後は近所の縄のれんで欠かさず一杯やっている。

もう一つはワインケラー(貯蔵庫)で1868年創業とある。日本ではその年の1月に鳥羽伏見の戦いがあり、明治と改元された。白ワインを試飲したが酸味が強かったように記憶している。前にパリの老舗のことを書いたが 大昔のワインでも樽のまま保存していたのか?まだ信じられない。5 ことのついでに ウイーンの公園でヨハンシュトラウスの像の前で撮った写真も載せておこう。

「今朝は9時食事、ベンJ4_2ツのマイクロバスに乗りルノーの工場を見学し、昼食後ウィーンの観光をする。建物は正に歴史そのもので、日本なら京都 という感じ。ゆっくりみたら一週間かけても足りないでしょう。夕方ツアーの一行と別れて自由行動をし、ウィーン歌劇場を尋ね、ペーターシュライヤーが出る「タンホイザー」を見ようとしましたが売り切れ、仕方なく 郊外のグリンティングに行き、レストランの客が陽気に歌ったり踊ったりしている様子を見ました。ついでに一軒ハシゴして、オランダ人、ベルギー人と仲良しになったりしました。元気です。」歌劇場の番組予告に小澤征爾の名前を発見し、聴ければ良かったのになァ とファンとして残念に思ったことを想いだした。

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(301)シニア会第10回定期演奏会

Photo 10月3日は中秋の名月だというのに生憎のお天気だった。役員は9時集合とのことで、一番近い所に住んでいる小生が遅刻したのでは と前夜から張り切って備え、予定より早く家を出た。既にアルバイトの学生が5人ばかり来ていて我々を待っていた。左の写真は 当日のプログラムのパンフレットだ。稲門グリークラブ・シニア会第10回定期演奏会 10月3日午後2時開演、ティアラこうとう(江東公会堂)大ホールと表紙に書かれている 。収容人員は1234席、響きのいいホールとして知られている。

  シニア会の定演は四谷区民ホールを利用することが多かった。それは「290話セールス」でも書いたように 我々のような団体の演奏会はメンバーが知り合いにチケットを差し上げるか、頼み込んで買ってもらわなくては来る人がいない。みんな義理で仕方なしに来ると言った方が正しい。可愛いお嬢さんのご出演なら眼を楽しませる事も出来るが、爺さん合唱団の演奏会では 遠くからわざわざ行ったこともないところまで尋ねてくる筈が無い。貰った切符であっても 当日の天気が悪かろうものなら、きっと都合が悪くなったり風邪をひいたりしてしまう。

 アンコールで校歌を合唱0406 メンバー自身が高齢者だから 知り合いもお年寄りが多く、概ね閑静な所にお住まいだから 西の方にお住まいの方など 東京を突っ切って来なくてはならない。だから お天気の良し悪しを心配するのだ。

 割り当てられたキップを消化出来ないで、自腹を切って入場券を死蔵するしかない人も、いざ幕が明くとなれば大勢のお客様の前で歌いたいものだ。現役時代は大ホールで歌うのが当たり前だったし、OBになっても勤めに出ていたときは付き合いも広く、顔も利いて 何とかノルマ以上に売れて団に貢献も出来たのだが、最近になると 殆んどの人がそうはいかない。

 Photo 応援団も入ったメーンステージという風に事情が判っているから 大ホールを借りるのは敬遠していたのだが、前にも書いたような事情で、身分不相応なホールで第10回定期演奏会を開く羽目になってしまった。 ここは一番俺が頑張らなくちゃァと 100枚目標で売ると宣言したところ、お蔭様で目標を9枚ほどオーバーできた。十周年記念の演奏会の時は、学友のオペラ歌手O君に出演して貰ったので、責任上180枚も売りまくったが、今回は出演人数も多かったので多少楽をしてもよかったのだ。

 売り先を大別すると 小学校の友達12枚、中学・高校の友人44枚、グリーの同期10枚、ご近所の知人32枚、身内11枚(これはタダ)以上だが、生れてこの方ずーとこの地に住んでいれば、根が生えているから造作も無いことでと言いたいし、本当はお役目柄もっと売らなくてはいけないのだが、でも大変だ。演奏会当日「聴きに行くから頑張って」と かねちゃんとキシローさんから書き込みがあった。有難う御座いました。

 お蔭様でマアマアの入り、演奏もその後の打ち上げ会も好評だった。今その後始末の最中で、会計さんは大忙しの最中だ。打ち上げ会で特別にお願いして自作を指揮して頂いた多田先生が、師事された清水 脩先生からよく叱られた事があったけれど、その時に必ずこう言われた と清水先生のお言葉を紹介してくれた。「罵詈雑言の中にこそ真実があり、褒め言葉には嘘が隠されている」と。さてと?我々は 自己満足できればそれで良しとするか。

 明日はカザルスホールで行われる千代田区民合唱祭に参加して2曲歌う。今回は30回目となるが、次回からは 日大の都合で借りられなくなり、来年は大手町の新装成った日経ホールで開催となるらしい。シニア会は創設以来参加してきたが今回が歌い納めとなる。残念なことだ。

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(300)改めて300回

10 栗原幸彦絵 箱根富士より「薄明」ブログが300回を迎えたので、「歌好き爺さん徒然草」第3集の編集にとりかかったが、目次を作り始めて驚いた。217話がない。うっかり飛ばしてしまったらしい。熱心な愛読者もおられるのだがご指摘もなく、淡々と回を重ねて来てしまったらしい。さて どうするか?と考えた。いまさら 300話の後に217話を載せるのも可笑しい話だし、欠番を知っていながらそのままにしておくことも性格上出来ない。

 従って 目次の制作と同時に回数の改変と これを機会に文章も貼り付けた写真、絵なども見直すことにした。先を急ぐこともないので 当分の間暇つぶしになる。

 ところで近況報告を二つ。一つはいま発売されている文芸春秋11月号に私の従兄弟と甥っ子の記事が偶然同時に載っていたことだ。従兄弟とは京須偕充(きょうす ともみつ)君で同級生交歓のページに大きく写真入りで載っている。文章は京須君が書いている。彼は落語評論家として活躍中だが、その長兄はW大グリーで私の後輩、32年卒でセカンドテナーのパートリーダーを務めた。シニア会にも出ていたが、残念ながら難聴となってリタイヤーした。

 もう一つはJR東日本のPR記事で、杉山隆男が見た「動く会社 JR東日本」第56回「10年先の新『新潟駅』に挑むプロ集団」として新潟駅改良工事のプロジェクトリーダーの山崎 淳君が紹介されていた。彼は今春亡くなった妹の長男で、子供のころから鉄道が大好きだった。東工大を出て念願かない、JRに就職し、いま上記の仕事についている。

 この30日に私たち夫婦を、レンタカーで新潟は弥彦神社から寺泊、村杉温泉に泊まって翌日は豪農の館などに案内してくれるらしい。いま新潟県はテレビ番組「天地人」の影響で観光ブームらしい。一泊二日の慌ただしい旅だが楽しみにしている。

 近況報告の二つ目は失敗談。10月3日のシニア会定演の翌日、茨城県の千代田カントリーで町会のゴルフ会があった。ターフナインズ・ゴルフクラブといい、私は創始者9人の内の生き残りの一人で今回が188回のコンペとなる。この会については 以前書いたことがあるので省く。(242話)「184回」

I2 シニア会第10回定期演奏会にて 第1ステージ定演の翌日では いくら好きなことでも辛いな と思っていたが、婿さんが幹事だし 記念の190回コンペも近い事ゆえ参加を決めていた。案の定 前日の疲れとゴルフの疲れが残って、5日の朝は膏薬を平目張りし娘に笑われたりしながら、定演で撮ってくれた写真をパソコンに取り込んで、早速 「シニア会通信」 という機関紙の制作に熱中した。

 夕方 友人のY君から電話だというので出たら「なんだ 元気じゃないか。来ないから3日の疲れで寝ているのかと思ったよ。君が来ないから 俺が指揮する羽目になってしまったよ。」「あ!そうだ。今日は同期会だったっけ。すっかり忘れていた」と まあこういう仕儀。

 高校の同期会は 今まで夕方に開かれていたが、だんだんとメンバーが高齢化して来たことでもあり、お酒が入っても明るい内に帰れるから安心と、今年から昼に開こうということになった。私は例年 会の終りに歌う校歌や抒情歌の合唱の指揮を任されているし、2日前の演奏会に大勢聴きに来て貰っていたので、一言お礼を言う心算でいたのに、すっかり忘れてしまったのだ。いよいよボケが始まったか?とすっかり 落ち込んでいたら学友の音楽評論家U君から葉書が来た。

 前略 先日はコンサートに伺えなくて残念。家内が行きY夫人と並んで聴いたそうですが、ハーモニーの美しさ、テノールの柔らかさが とても老人とは思えない と言って帰って来ました。直ぐに君のインターネットにアクセスしたが、つながらなかったとのこと。しかし 同期会を忘れるとはよっぽど疲れたんだね。まあ ほどほどに。お元気で! 

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(300)ラリック美術館

Photo_4 ルネ・ラリックのカーマスコット「とんぼ」1928 ガラス工芸品 下部の金属部分を車のボンネットに嵌め込み固定する

 箱根仙石原にあるラリック美術館を始めて訪れたのは2005年11月16日水曜日であった。その時のことを日記にこう書いている。

 2泊3日で相州は箱根路に気儘な旅をして夜7時頃戻った。最終日は晴天で、再びゴンドラに乗って富士をみた。今日の収穫は最後に訪れた箱根ラリック美術館で、ここは建物、レイアウト、展示物すべてシャレた一級の美術館。思わず荷物になって重いのにカタログ(2800円)を買ってきてしまった。

 Photo_5 その頃既にパソコンはやっていたが、ブログは始めていなかった。やっていれば当然書き残しておきたい印象だったのだが、先年再び訪れたことと、日経新聞7月13日(月)文化欄に館長の簱 功泰 (はた・かずやす)さんの話が 「山里を装うラリック」◇フランス工芸の粋1500点、あふれる自然と一体に◇というタイトルで載っていたので、既にご存知の方も多いと思うけれど、紹介したくなった。

 開館は2005年3月19日というから、私は比較的早い時期に訪れた事になる。入り口の建物から プロムナードを歩んで木造風の美術館に至る導入部で、広い庭、木立のたたずまいなどに見とれる。そこに大きなクラシックカーが2台展示してあった。なんとなく見過ごして館内に入り、展示物に感嘆しながら最後のコーナーに入ったら、そこはカーマスコットのコーナーであった。

 今の車にもラジエターは付いているが、エンジンルームの中に隠れていて 外からは見えない。私の子供時代の車、いや 戦後の車でもラジエターが前面に露出していて、そこに水を注入する光景を良く見たものだ。クラシックカーの時代はラジエターの性能が悪く、大型で よく水を補給して乗っていたらしい。そのキャップに凝って色々なデザインのキャップを作り、嵌めて、お洒落をしていたようだ。だから駐車中はキャップを外して、ポケットに仕舞ったりしていたという。ベンツや旧型のセドリックのボンネットに付いていたエンブレムは、その名残りかもしれない。

 Lys0401 館長さんは たまたまフランスの工芸作家ルネ・ラリック(1860~1945)の自動車装飾品に出会い、魅せられて その作品収集を40年以上にわたって続け、これまでに約1500点を集めてきた という。こういう方のお蔭で、私達は素晴らしいものを見せて頂ける。有難いことだ と思うと同時に そんなお金がどうしてあるのだろう とも思ったりした。だが そんなことは私には関係ない。ただ感謝するのみで、こうしたお金の使い方が出来る人が羨ましい。

 いい建築物だと思っていたが、今回調べてみたら2006年度に建築関係の賞を受けているらしい。設計・施工は鹿島建設:丹青社 敷地 13004㎡ 美術館棟2601㎡、延床面積4586㎡ カフェレストラン1083㎡ 美味しいですよ。

 300話となって一区切りとなりましたが、暇に任せてこのまま続けます。その内ボケてきて、おかしなことを書くようになるかも知れませんので その時は書き込んで戴き、遠慮なく ご叱正下さるようお願い申し上げます。

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(299)トゥールダルジャン

 9月26日(土)の日経新聞の夕刊にこんな記事が載っていた。「仏の老舗レストランが放出 高級ワインなど18000本競売」wine

 「セーヌ川沿いに建つトゥール・ダルジャンは1582年の創業。貯蔵庫にはワイン45万本を保有している。カモ料理が有名で、昭和天皇が食事をしたことでも知られる。競売にかけられるもので最も古いものは1788年のコニャック『クロ・デュ・グリフィエ』。このボトルの売り上げは慈善事業に寄付される。」

 恰好のいい話で、流石に老舗と感心したり、総額いくらになるのだろう?とか、競売日の12月7日~8日には世界の各地からワイン好きがパリに押し寄せるのかな?と思ったりしたが、45万本を持っているのなら1.8万本ぐらい寄付しても4㌫で大したことはないや と出来もしないことだから鷹揚に読み過ごしたが、その歴史にも驚いた。sign03

 早速手許にある日本史と世界史の年表で調べてみたら、1582年は日本では「本能寺の変」があった年でアメリカなどは影もカタチもない。オランダがスペイン王国から独立した翌年だ。その頃から今のようなガラス瓶があったとは思えないから、どのようにして保存していたのだろうか?と思い女房に言ったら「樽じゃない?」という。確かにアルトハイデルベルクの古城に大きなワイン樽があったが、木樽ではそんな長い年月がたつと中味が蒸発してしまうのではないかと心配になる。

 壷かな?と思ってみたりしたが、それにしても45万本の貯蔵庫とは一体どの位の広さなのだろうか?まさかパリの市街地の地下倉庫ではあるまい 温度、湿度と快適な環境の地方にあるのかな?とか 保管の警備も大変だろう と小人は閑居して下らないことに興味を持ったりしている。┐(´д`)┌ヤレヤレ

Image_011 ニューオオタニに日本支店があり、開業25周年アニバーサリーフェアとして、この秋10月4日までの期間中特別に用意したランチとディナーを提供するという。特に 10月3日はガラディナーパーティーとして、夢のような一夜となるでしょう とホームページに書いてある。料金はお一人様サービス料共で7万円。私も女房もその日は あいにくシニア会の定期演奏会があり、終演後の打ち上げパーティーに参加する。会費 男性5000円、女性4000円。bottle 

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(298)さんまパーティー

Photo 目黒のさんま ならぬ「神田のさんま」パーティーが今終わったところ、いや 片付けが今始まったところ というべきか。とにもかくにも 秋の行事は終わった。

9月に入ってから好天が続いているのに、この日だけは予報どおりの雨だった。朝から音を立てて雨が降っていた。午後3時開始の予定であったが、前日の予報が 夕方から雨がひどくなり、それまでは降ったり止んだりハッキリしない天気というので、10時集合、パーティーは昼からと予定を変更し、前夜の内に連絡した。

前日までは晴れ、当日は雨、翌日からはまた晴れ、との予報をみていると、何故その日だけ?と思うし、若しかしたら前後にズレルかもしれないと自分に都合よく考える。それに第2土曜のその日でないと、もしも降られた場合逃げ場がない、というのはその日であれば、ウチの会社が休みなので、工場内に宴会場が設営できるから と安全踏んで準備にとりかかった。

Photo_2 テント2張り、秋刀魚を焼くコンロ2台、焼きソバ用コンロ、芋煮用大鍋、プロパンガス、宴会用テーブル12脚、折りたたみ椅子50個などが設備、生ビール、缶ビール、酎ハイ、日本酒、ウーロン茶、ジュース等等の飲み物の用意、箸、使い捨ての小皿大皿各種、の買出し、廃棄物処理の袋、シール、食べ物の買出し、さんま、おにぎり、焼きソバ用めん、芋煮用野菜各種、牛肉、とうもろこし、ジャがバタ用じゃがいも、フランクフルトソーセージ、焼き鳥、シューマイ、生野菜各種、調味料。もれがあるかもしれないが このような準備を整えたからには よっぽどの事がないと いくさは中止に出来ない。わが海軍と同じだ。

幸い12時ごろには雨が止んで人が集まりだし、秋刀魚も焼き始めた。もうこうなったら止まらない。生ビール飲み飲みお仕事開始。婦人部も味見に忙しい。その内近隣の知り合いが一升下げてやってくる。隣町の町会長さんがお供を連れてやってくる。接待役の酒も弾んでしまう。

Photo_3 3時過ぎにはくたびれてきて、そろそろ止めようや という声も出てきて、半ごろに閉会の挨拶、手締めとなり、全員でお片付け、掃除、後は明朝とひとまず終了、残り物をもって会社の応接室で反省会。私はご苦労様と それで帰ってきたが、なお反省し足りない者達が行きつけの飲み屋に出かけていった。その後また土砂降りになったから、パーティーの開始時間を早めて正解だった と自分で納得した。

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(297)ふるさと

 11年前、1998(平成10)年3月22日(日)日経新聞文化欄の切り抜きが出てきた。新井 満さんが書いた「私たちの故郷(ふるさと)は地球です」というタイトルの小文が載っている。「    」内新井さんの文章

「2月22日午後7時30分、長野五輪の閉会式はフィナーレを迎えようとしていた。「いよいよ聖火が消えます!」司会の萩本欣一さんが叫ぶ。「聖火が消えたら『故郷(ふるさと)』を一緒に歌いましょう。故郷、いい言葉ですねぇ・・・・」

 67 「ニコライ堂」 河合喜代子 第67回 創元展 開会式は小澤征爾が指揮をして、ベートーヴェンの「歓喜の歌」を5大陸がリレーして大合唱する という前代未聞の試みをし、成功を収めた。私もTVで聴きながら、その企画と技術力に感心したことを憶えているが、閉会式も感動的な演出であったようだ。

 平和希求メッセージの総仕上げとも言うべき閉会式で、「歓喜の歌」に対峙させるにはどんな歌が適当か?と式典のシナリオ作りに参画していた新井さんは随分考えたらしい。その解答が『ふるさと』だった と書いている。総合プロデューサー兼演出家を務めた浅利慶太氏が、「もしかするとこの歌、ワールドソングになるかもしれないねえ・・・・」と言ったという。30億もの人々が、テレビ中継で閉会式を見るのだからと。

 中々にいい文章で だからこそ取っておいたのだろうが、全文を写す訳にもいかないので少しご紹介する。

 「こころざしを 果たして いつの日にか 帰らん」

 『ふるさと』の3番を歌うたびに想うのは、こういうことだ。「いつの日にか帰ろうとする故郷とは、一体どこにあるのだろう。」

 氏は少年の頃、故郷の新潟が生んだ坂口安吾の「ふるさとは 語ることなし」の真意が判らなかったが、「今では実によくわかる。故郷に寄せる熱き想い万感胸に溢れて言葉にもならぬ・・・・。(中略)私にとって、もはや帰るべき家や故郷など、どこにもありはしないのだ。」

 「今、もし宇宙船の窓から、この五輪閉会式の光景を見ていたとしたら、一体どんな感想をもらすだろう。『ああ、わが故郷の星に、今、灯がともった。なんと美しい星だろう。さあ、急いで帰ろう。家族や友人たちが待つ、あの故郷へ・・・・』

 神田祭「宮入り」Photo  電気街の真ん中にある昌平小学校に学ぶ子供らにとって、この喧騒の町も「ふるさと」である。「ふるさとは懐かしきかな」である。この歌を知らない子供は不幸だと思う。文語体の歌詞であっても 繰り返し歌っていれば判るようになる。そして いつの日か忘れられない歌となるだろう。子供たちがこの歌を知らないと知って、昌平音楽祭では必ず歌うことにしたいと思った。

 新井 満さんは「千の風になって」の歌でそのお名前が一遍にポピュラーになった。この文章が新聞に載った1998年の頃は、電通の人で 芥川賞作家としか私も知らなかった。2004年の9月9日重陽の節句に、W大グリー同期の親友が死んだ。それから5年、その頃はまだ「千の風になって」は流行っていなかった。私達は教会で「遥かな友に」を合唱した。

 この話には無関係だが 小澤征爾が優勝してプロへの道を踏み出した国際指揮者コンクールに 私達の指導をしてくれた山田和樹君がこの度見事優勝され、新聞やTVで報道された。松尾葉子さんのご紹介で 東京芸大の一年生の頃から存知あげているので、身内のことのように嬉しい。昨年10月に別の指揮者コンクールで同門の三ツ橋敬子さんも優勝を果たした。この方もシニア会を指導され、彼女が全曲指揮をした市販のCDも作った。私たちはよき指導者に恵まれて 今日まで歌ってきたのだなァとその幸運に感謝している。

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(296)流れ

「普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、『もう戦争しかない』と思ったのはなぜか?」と 加藤陽子著「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社)のカヴァーにあった。本当に何故だろう?と思い この本を読んだと前回書いた。

 Photo ふるさと 心の原景 第5集「花の風景」 原画 原田泰治 私が府立四中に入ったのは昭和18年(1943)、そろそろ戦況がおかしくなり始めた頃だったが、子供のことゆえ そんな事は知らなかったし、日本は勝つもの と思い込んでいたから 海軍兵学校に入った先輩が白手袋に短剣下げて 四中に来た時は眩しく眺めたものだ。当時は一高~東大よりも、海兵陸士が男子校生徒の憧れの的だった。そういうエリートが集結した軍部の指導者が どうして国を誤らせる判断をしてしまったのか?と理解出来なかった。

 歴史の後講釈は誰にでもできるが、この本で知った胡適(こてき)という人の「日本切腹、中国介錯論」は凄い。日中戦争が始まる1935年に唱えたという。当時の日本の勢いを抑止できるのは、アメリカとソビエトしかないから、「両国を中国と日本の紛争に引き込ませるために、中国が日本との戦争を一手に引き受けて、3~4年間負け続けることだ」と論じた。その後この人は駐米大使となり、真珠湾攻撃の41年12月8日にはワシントンに居たという。

 Photo_2 長良川の鵜飼 胡適の論の最後に「日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている」とある。([世界化する戦争と中国の国際的解決戦略])だがその35年の時点で、汪兆銘は「そのように日本と戦争をしている間に、中国はソビエト化してしまう」と反論したという。49年に中華人民共和国が成立したことを思うと、その予測の鋭さに驚くばかりだ。今の政治家もそのレベルで国の舵取りをしているのだろうか?

 さて 今度の内閣で国家戦略相が置かれるという。評論家が「今の日本には国家戦略がない」などと言ったりはするが、政府の機関に国家戦略大臣が置かれるとなると、そそっかしい者は勘違いしてしまう。外国のメディアがこのポストをどう訳すのか知れないが、昭和の初めに歴史が戻ったりするのはゴメンだ。長い自民党の政権が自壊して得られた新政権だから、変わり映えしなければ と焦ったりすればおかしな方向に流されてゆくのではないか?それが心配だ。明日 新総理が指名され 民主、社民、国民新党の連立内閣が誕生する。「民社国とは何処の国よと孫が言い」との川柳が出て来そうだ。新しい流れがゆるやかに流れ始めた。

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(295)整理

Photo この写真は岡城址にある瀧廉太郎の銅像前で、にわか仕込みの三部合唱「荒城の月」を歌っているところだ。編曲は平井康三郎だったか?忘れてしまった。聴衆は親愛なるわが女房たちと白い犬一匹だけ。5年前の2004年9月九州柳川へ演奏旅行に行ったときの帰りに立ち寄った。この時のことを私の「自分史としてのシニア会10年史」に書いているのでご紹介したい。

 (前文省略) 豊後竹田の「武家屋敷」で昼食となった。岡城址の瀧廉太郎の銅像前で「荒城の月」をハモルことにしていたので、座敷の客が我々だけだったのを幸いに、食後 一杯機嫌で練習をしていたら、仲居さんたちが「是非 ちゃんと歌って下さらんか」とせがんで来た。「よかろう」と庭に降り、彼女らや女房達を縁側に座らせ、練習の成果をご披露した。拍手と共にお礼にと紙に包んだお菓子を戴き、酒も効いて来てすっかりいい気分になって 次の「瀧廉太郎記念館」に向かった。

 調子に乗ってそこでも、折りよくやってきた多数の観光客を前にして再び歌った。館長さんは筑紫哲也だから 当然そこにはいなかったが、管理人のおばさんが大感激。女房を含め8人分の入館料を返してくれたのにはこちらも驚いた。

 私らの歌を正座して聴いて下さっていたお客様の内、妙齢のご婦人がハンカチでしきりに目を拭っておられるのが眼についた。汗を拭いていたのか、感動のあまり溢れ出る涙をぬぐっていたのか お尋ねしてくればよかった とあとで残念がったりした。

 来年金婚式を迎えるので、会食の折に、50年の歩みをスライドで映写をしようか と女房が言い出した。双方の独身時代を簡単に触れてから結婚暦50年を辿ろうというのだが、一年2冊としても100冊以上になるアルバムを整理するのが大変な作業だ。たった一枚の写真でも それなりの思い出が残っているので、簡単には捨てきれない。「整理とは捨てることなり」 と知ってはいるがゴミ箱に捨てられた多数の写真を眺めると不機嫌になる。

016  アルバムの冊数は随分と減ったけれど、捨てきれない写真も一杯残っているので、スライド用はそこから改めてピックアップすることにして、あとの整理は次の時代の人に任せることにした。自分の手で 楽しかった思い出を削除してしまうのは気分が悪い。

 今はデジカメで撮ってマイピクチャーに保存するだけだから随分と簡略化され便利だが、その分思い出も軽くなってしまうような感じがする。パソコンの中に入っている映像は一発で消去出来るし、CDに焼いておいたものでもアルバム数十冊が1枚に収まってしまうから、ゴミ箱にポイト捨てればそれっきりだ。情緒なんてぇものは こうした日常生活から だんだんと失われていってしまうものなのだろう。

 (旅の話の続き)城山の麓に広瀬神社があった。石碑に「轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸・・・」と広瀬中佐の歌詞が刻まれていた。沈んだボートも復元され展示されていたので、またまた唱歌「広瀬中佐」を大声で斉唱、社務所のおばさんが喜んで我々を手招きし、お茶をご馳走してくれた。そこから熊本の秘境 垂玉(たるたま)温泉「山口旅館」に宿泊。翌日 阿蘇山を見物、新婚旅行の際はガスで見れなかった大火口を眺める事が出来、満足して18時15分の便で帰京した。

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