2012年5月26日 (土)

(435)奥の細道第8回ーその二

●行程

第2日 仙台ー竹駒稲荷神社ー二木の松ー陸奥国分寺ー青葉城跡ー仙台東照宮ー榴岡天満宮ー榴ヶ岡公園ー芭蕉の辻ー仙台(泊)◆宿泊施設  青葉の湯 ドーミーイン仙台ANNEX

本文

Photo 18 武隈

岩沼に宿る。
武隈の松にこそ目覚むる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿うしなわずと知らる。まづ、能因法師思い出ず。往昔(そのかみ)、陸奥守にて下りし人、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠みたり。代々、あるは伐り、あるいは植継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形ととのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。
   「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白という者の餞別したりければ、
         「
桜より松は二木を三月越し」

 青葉通りに面したホテルの食堂から外を眺める。陽を浴びた街路樹の若葉が美しい。職場に急ぐ人の姿を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。佐藤宗幸の「青葉城恋歌」のメロディーが浮かんできたりして、ちょっぴり旅情を楽しむ。第2日も好天に恵まれたようだ。9時出発で まず京都の伏見、常陸(茨城)の笠間と並ぶ日本3稲荷として、多くの信仰を集めている竹駒神社へバスは向かった。参詣の後、徒歩で二木の松を見る。

Photo_2 本文にある通り“武隈の松”と呼ばれ、遠く平安時代から歌枕として親しまれ、植え継がれてきた松で、現在の松は7代目、文久2年(1862)に植えられたと伝えられている。勿論 芭蕉の句碑「桜より 松は二木を 三月越し」もある。能因法師は二度目の下向の折、武隈の松がないので、「武隈の松は このたび跡もなし ちとせを経てや我は来つらむ」(類字名所)と詠んだ。その故事を芭蕉は伝えている。

 「岩沼に宿る。」と一行に章題の如く書いているが、実は泊っていない。前回の笠島でも「これより遙か右に見ゆる山際の里を…」と書いているけれど、曽良の日記には左と書かれているし、上の写真にある岩沼市教育委員会の説明板にもそのように書かれている。

 名取川も歌枕で 「名取川 瀬々のむもれ木 あらはれば いかにせむとか あひ見染めけむ」(『古今和歌集』よみ人知らず)とあり、名取市と仙台市の境を流れている。

P5080789 以前グりークラブの同期会で青森に遊び、津軽の黒石神社に詣でたことがあった。その時神主さんから「お参りの際は 何処から来た誰それと言わないと神様は判りませんから、お願いを叶えてあげられません。ですから、必ず姓名・住所を申し上げてからお願いをして下さい。それからお帰りになる時は、参道の中央を歩かないように。そこは神様がお歩きになるところです。」と教わった。

 今回の旅行で、先週書いた道祖神社の神主さんも「このお宮は正一位を戴いている霊験あらたかな神様です。むかし藤原実方が乗った馬が暴れ、落馬がもとで死んだと言われていますが、実方はこの先を下馬もせず横切ろうとしたからです。」と言っていた。正一位はお稲荷さんだけかと思っていたが、先週掲げた鳥居の写真には確かに「正一位」と書いてある。この金曜日から日曜まで、わが町の氏神湯島天満宮の祭礼である。このブログが公開される頃、私は拝殿で頭を下げて祝詞を聴いていることだろう。

 最後に少し講義を聞いてみよう。
 お江戸出立の折、挙白が「遅桜の頃に、翁は武隈あたりを通られるだろうが、その時は武隈の松にご案内してくれよ」と餞別の句をくれた。江戸出立の桜の頃から待っていた松の二木を、三月越しにやっと見ることが出来た。(橘季通の古歌「武隈の松は二木を都人、いかがと問えば見きと答えん」を踏まえ、松待つ、見三月を懸けている) 
(この項続く)

2012年5月19日 (土)

(434)奥の細道第8回 その一

奥州白石より歌枕の多い多賀城まで

●行
第1日 
東京<東北新幹線>==福島ー白石ー諏訪神社―馬牛沼ー田村神社(あぶみ摺・甲冑堂)ー昼食ー白石城ー韮神橋ー道祖神社ー藤原実方の墓ー仙台(泊)  ◆宿泊施設  青葉の湯 ドーミーイン仙台ANNEX

 5月8日朝7時40分時間厳守で、東京駅日本橋口に集合した。旅行社のツアーが幾つもあって、各グループ毎にたむろしている。世界遺産に登録された平泉を訪れるツアーが幾組もあった。私達が乗車した8時8分発やまびこ127の6・7号車はこれらの団体客で満員になってしまった。世の中は不景気だとか言われているが、平日にこれほどの人が遊びに行くのだから、大したものだと妙なところで感心する。福島駅着9時44分。

 駅前に野本観光の大型バスが待っていた。これから3日間お世話になるわけだが、夜行バスが運転手の居眠り運転で、高速道路の側壁に衝突し、7人死亡負傷者多数の事故を起こしたというニュースを聞いたばかりなので、一寸不安になる。添乗員さんに訊いても仕方がないことだが、「このバス大丈夫だろうね?」とつぶやく。勿論返事は「ご心配ありません」

Photo まず諏訪神社に詣で、芭蕉と季吟の句碑を見てから馬牛沼(ばぎゅうぬま)を経て田村神社につき、甲冑堂を見た。内部には郷土の彫刻家 小室達氏の製作になる美しい甲冑姿の木像が2体あった。それは源義経の家人 佐藤継信・忠信の妻 楓と初音で、継信兄弟の父元冶が臨終の間際、戦死した息子への追憶で心を痛めていた時、その妻女が凛々しい甲冑姿で兄弟の凱旋を装って現れ、老父の心を休めたといわれる故事によって作られたもの と神主さんから丁寧な説明があった。なお「おくの細道」本文にも「15 佐藤庄司の旧跡」に書かれているがここには載せない。

本文 「おくの細道」

Photo 17 笠島

鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人に問えば、「これより遙か右に見ゆる山際の里を箕輪・笠島といひ、道祖神の社・かたみの薄*今にあり」と教ふ。このころの五月雨に道いとあしく、身疲れ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、箕輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、    「笠島はいづこ五月のぬかり道」

*西行が実方の塚を訪れて「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて 枯野の薄 形見にぞ見る」(新古今I)と詠んだ薄。

Photo_2 鐙摺(あぶみすり)は田村神社の手前右側にあり、昔は馬が一騎やっと通れるだけの細道で、横の岩に馬の鐙がこすれるのでこの名がついたという。白石城(しろいし)は伊達氏家臣片倉小十郎の居城で、明治維新まで10代約260年間続いた。さきの震災で損傷をうけ改修中で内部には入れなかった。道祖神の社、かたみの薄は写真を見て戴くとして、先週書いた藤原実方についての続きを書こう。

 実方は風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある。(本稿はWikipediaより)

Photo_2 実方は長徳4年12月12日(999年1月2日)任地笠島で没した。齢は40歳ぐらいだったという。というのは生誕の日が明らかで無いためだ。実方はこの日、道祖神社の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとしたところ、突然馬が倒れ、その下敷きなって亡くなったという。(源平盛衰記) 都人の間には、辺境の地で客死した同情もあったのだろうか、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出るとか、スズメに生まれ変わって殿上の間においてある台盤の上のものを食べたという説話が残っている。

小倉百人一首にある実方の歌は恋の歌で、小学生の頃 娘3号の得意札であった。
「かくとだに えやはいぶきのさしも草 さしも知らじな もゆる思ひを」
意味が判らないのに、お正月の百人一首で遊ぶと、先ずこの札を探していた。わけを聞くと「お友達に かくたという子がいるから」と言っていた。

最後に歌枕を一つ。
 阿武隈川(あぶくまがわ)  「阿武隈に 霧立ちくもり明けぬとも 君をばやらじ 待てばすべなし」(古今和歌集)

加えて 余談を二つ。
 その一 明日は小生の誕生日、昭和5年(1930)5月20日生まれで82歳となる。左手足が不自由になってきて、いささか迷惑をかけたり、行動に制限が及ぶことも出てきて残念だが、お蔭さまで右手が何とか使え、何よりもお酒の制限がないので、心は丸く、気は長く余生を楽しく過ごしたいと願っている。
 その二  432話「それから60年」でご紹介した「東京漫訪」のURLが変更になったという知らせが入りました。下記のようにご訂正をお願い致します。

      http://www.ab.auone-net.jp/~takei78

2012年5月12日 (土)

(433)歌枕

 今月の初め、日経新聞夕刊の一面「あすへの話題」に、高橋温さんという方が書かれた「理想の平和都市ー平泉」という短文の中で、松尾芭蕉が平泉を訪れた元禄2年(1689)は奥州藤原氏が滅亡してから500年目のことで、史実に明るい芭蕉が、「平泉の歴史をひもとき、大局的な歴史観を踏まえて往時を偲んだのである。願わくは、読者も現代の芭蕉となり、理想郷、平泉の息吹を体感してほしい。」(「  」内原文のまま) とあった。

Photo 「伊勢」 根津神社蔵三十六歌仙より 奥の細道のツアーが復活して、平泉も近く訪れることになるが、芭蕉の旅は歌枕をたずねる旅でもあった と聞かされて、歌枕とは そもそもどういうことかと調べてみた。

「歌枕」とは?と手許にある国語辞典*で引いてみると、「古い歌によみこまれた名所」と出ていた。講談社発行の日本語大辞典第二版には「もとは枕ことばや名所など、和歌をつくるときに必要な事柄を示した書物。のちには歌に詠まれて有名になった諸国の地名・名所をいう。」とあり、これに対して俳句に詠まれた名所を「俳枕」という とあった。  *金田一京助編 三省堂発行

 小倉百人一首にある能因法師が『能因歌枕』という書を残していて、そこには当時の歌枕とされる言葉が集められているという。地名としては大和国をはじめ東は陸奥の国から西は對馬まで61ヶ国に及び、それらは山や川、浦といった自然の景物、また橋や関、里などの場所が取り上げられている。能因の作として他にも『諸国歌枕』という地名の歌枕を集めたものがあったらしいが現存していない。平安時代後期になると、名所や由緒ある場所に限ることがあったという。

Photo_2 もともと地名の歌枕は、その風景が親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠み込まれていたようだ。たとえば「桜」なら「吉野山」、「龍田川」なら「紅葉」というふうに、その場所ならこの景物を詠むというようにパターン化されていたらしい。奥の細道ツアーで訪れた白河の関は
「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」 
能因法師の名歌で、白河の関を一躍有名にしたが、法師は2度ほど奥州に下向しているけれど、この歌を詠んだ時は現地に行ってなかったそうだ。

 余談になるが、百人一首51番の藤原実方は長徳元年(995)に、一条天皇の面前で藤原行成と歌について口論となり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件を起こした。天皇は怒って「歌枕見てまいれ」とお命じになり、陸奥守に左遷したという。中々 雅な辞令だと感心した。実方は長徳4年 任地の笠島で没したが、それについては次回に書く。

2012年5月 5日 (土)

(432)それから60年

Photo ゴールデンウイーク初日の28日に、女房の兄さん夫妻の結婚60年を祝うパーティーが開かれた。女房は5人兄弟の末っ子。長男長女は既に亡くなり、すぐ上の兄さんは金婚式のあと奥さんを亡くしている。長寿化の昨今でも、揃って元気でダイアモンド婚式を祝える夫婦は少ないだろう。

 60年前の1952年には朝鮮戦争が未だ終わっていなかったし、日本が占領下から主権を回復したばかりで、敗戦から7年の何もない頃だった。明治神宮で式を挙げたが、披露宴の出来る会場があるわけはなし、仮にあったとしても料理が出せる状況ではなかったから、阿佐が谷の家に戻って宴会をしたそうだ。勿論 新婚旅行など出来る環境ではなかったようだ。昭和27年のことで小生は早稲田グリーの3年生、合唱コンクールの優勝を夢見てクラブ活動にどっぷりと漬かっていた頃だった。

60nenn 振り返ってみればあっという間の60年で、色々のことがあったけれど、過ごしてきた日々は楽しかった、これからの60年で世の中がどう変わるのかさっぱり判らないが、日本の経済は峠を越して下り坂を辿っているように思う。出生率が低下して若者が減り、年金暮らしの年寄が増え、医療費その他の社会的費用が増え続けている。財政が危機的状況にあると始終聞かされていれば明るい夢は描けない。孫4号が大学3年生で目下就職活動の最中だが、先日一緒に食事をする機会があってアレコレと話をして私も60年前は、このように明るく世間知らずで平気だったのかなぁとその若さを羨ましく思った。

 結婚記念日を祝うという風習は欧米から齎されたものらしい。明治天皇が宮中で銀婚式を挙げたのが民間に広まったらしい。人生50年といわれた昔、日本ではそんな寿命も、ゆとりも下々の者にはなかったのだろう。結婚1周年が紙婚式で年を重ねる度に廉価なものから高価なものに変わって行く。イギリス流とドイツ流があるのも面白い。

 私達は丁度2年前の5月5日に金婚式を済ませたばかりなので、義兄にあやかりたいとは思うけれど、その時は90歳になってしまうから、一寸自信がない。55年がエメラルド婚だそうだがそれまで頑張りたい。左手の不具合が進んで、いまや介護人となった女房殿が頼りの毎日になってみると、奥さんに先立たれても元気に生活して人は偉いと思う。

 「東京漫訪」小さな名所探し というある人のホームページがあるのでご紹介する。そのアドレスは次の通り http://www.ac.auone-net.jp/~takei81/
その名の通り最新の「神楽坂界隈」を含めて18か所が紹介されているが、種々の文献を精査し、実地を歩いて書き綴った文章なので、面白いし為になる。作者はわが女房殿のすぐ上の兄貴である。ご一読を。 

2012年4月28日 (土)

(431)孫八

Photo 関の孫六という刀鍛冶の名は聞いたことがある。写真はこの度生まれた孫8号で、いうなれば孫八だが、嫁ぎ先の家から言えば孫一である。本当の名前は未だない。10年ぶりの孫誕生なので、7号は子分が出来たと大喜びである。4月10日の18時53分に誕生し、体重は4144g身長52㎝の大きな男の子であった。娘5号の初産であり、嫁ぎ先の初孫でもあるので、両家の爺さん婆さんが産院に顔を揃え赤ちゃんの登場を待った。運ばれてきた赤ちゃんはご主人の腕にいだかれ、早速写真におさまった。いまは携帯電話のカメラでもすぐ写せるし、このように記録に残せるから便利な世の中になったものだ。面会の制限時間も過ぎたので、その晩は秋葉原駅近くの「響」という和食屋で両家の祖父母が無事出産の祝杯をあげた。

 8人目の孫が生まれたと言うと「そりゃぁ凄いね」と少子化の昨今驚く人もいるが、4人の娘から生まれたのだから当たり前の数で驚くにはあたらない。私の母は10人の子供を産み、7人を育て、15人の孫に恵まれたが、子供一人当たりにすれば同じようなものだ。18日に退院しわが隠居所に帰って来たから、家の中が王子さま中心にまわっている。「お七夜」が過ぎれば「お食い初め」で、ご主人の実家からお赤飯とお煮しめが沢山届いた。赤ちゃんが食べる筈もなく、私達が美味しい美味しいと言って頂いた。

Photo 御所人形 男の子だから早速初節句はどうする という話になったが、それは来年のことにして取りあえず「お宮参り」をどうするということになった。自宅近くの氏神様に参るのが普通だが馴染みの神社がないらしいので、それなら湯島天神に昇殿参拝をさせて貰ってから、近くの店で食事でもしたらどうか?と提案し、そのように決まった。当町会の氏子総代を務めているのだから、お願いすれば天神様も引き受けて下さるだろう。ご主人のご両親と私ら夫婦、娘夫婦と6名がお供する大げさなお宮参りになりそうだ。  

 それで、今までこんな大袈裟なお宮参りをしたのかな?と考えてみたが、そもそもお宮参りに同行した記憶がない。孫6号7号の時は同行していないそうだし、孫5号以前は20年以上も前のことで、忙しい頃だったから多分母と女房任せで私は関わらなかったのではないだろうか。孫どころか娘たちのお宮参りについ、ての記憶もない。そうなると今回が最初で最後のお宮参りということになる。

 

2012年4月21日 (土)

(430)ハクビシン

Photo_2  我が家はJR秋葉原駅とお茶の水駅の丁度中間 にあり、アキバの喧躁が醒めかけたところで、事務所ビルが建ち並んでいる個所にある。交通至便のところだが、電車 自動車の騒音はやかましく、「こんなところによく住んでいられるねぇ」 と言われるが“ 住めば都”で、最近の建物は防音性能もよくなったし、マンションも2棟建ち、昔からの住民も多い。もっともそういう人は、そのような音を聞くと我がふるさとに帰ったような気になるのだから可笑しなものだ。

 湯島聖堂が近くにあるせいか、我が家には毎朝ヒヨドリや雀がやってきて、仏壇のお下がりをついばんでゆく。春になるとめじろがやってくることもある。花が咲けば蝶々もひらひらやってくるし、夏の暑い日には横町に蛇が出て来ることもあり、秋になれば 赤とんぼが部屋に迷い込んで来ることもある。都心らしからぬ都心だが、ハクビシンが白昼堂々電線の上を歩いているのには驚いた。

Photo_3 実は前からその存在は確かめられていたのだが、映像に収めることが出来なかった。今回偶然に女房がカメラにおさめた。察するところ湯島聖堂あたりにねぐらがあって、電線伝いにアキバへ遠征し、食べ物にありついているらしい。道路の横断は交通事故の恐れがあり、地上には野良猫もいるので、このバイパスが最も安全と知ってのことだろう。写真は千代田区と文京区の区界の横丁に張られた電線で、下にくるまの屋根が写っている。

 横丁を出ると都道で 昔は都電が通っていた少し広い道にでる。電線はその上を渡り、約50m程の街並みを経て国道の外堀通りを越えているから 確実にアキバの繁華街に到着できる。そこまでたどり着けば 飲食店が数多くあるから、好物を選んで食べられるのかも知れない。その先は中央通り、もっと道幅が広くなるから、そこを越えてまで足を延ばすかどうかは判らない。何れにしても車が激しく行き交う幅の広い道路を サーカスのように綱渡りをして横断するのは命がけだ。行ったら帰らなければならないから、当然往復している筈だ。であればその姿を見た人がいて当然だ。

Photo_4 ハクビシンについての解説を書こうとして、書棚にある1995年発行のブリタニカ国際大百科辞典を開いてみたら見当たらない。仕方がないのでネットで調べて書き写すのだが、百科辞典も調度品として並べておくだけの利用では 執筆された先生方に申し訳ないような気もするが、パソコンの便利さにはとても敵わない。

ハクビシン(白鼻芯、白鼻心) Wikipedia

 日本に生息する唯一のジャコウネコ科の哺乳類で、外来種と考えられている。その名の通り、額から鼻にかけて白い線があることが特徴である。
 頭胴の長さ約61~66cm、尾の長さ約40cm、体重2-3kg程度、オスのほうがメスよりも一回り大きい。猫のような体つきで鼻筋が長い。体は暗い灰褐色で頭、手足、尾が黒い。足指の数が4本のタヌキと足跡で見分けることができる。

 植物食中心の雑食性で、果実、種子、小動物、鳥、鳥の卵などを食べる。中でも果実を好む。熟した果実や野菜などを見つけると、毎夜同じ道をたどって侵入するので獣道が形成される。木登りが得意である。民家の軒下・屋根裏などに住みつくこともある。夜行性で昼間は住処に潜んでいる。

 国内に生息しているという最初の報告は1945年に静岡県であり、関東地方では1958年の神奈川県山北町での記録が初めてとなる。東京都では1980年に八王子市で初めて報告された。ハクビシンは同様の被害をもたらすアライグマと違い駆除対象となっていないから、「住宅街をうろついている」などと、民間人が予防的に捕獲することは許されていない。

 

 

 

2012年4月14日 (土)

(429)幻の第7回

Photo_2 東日本大震災のため中断していた「奥の細道ツアー」が再開するとの知らせが入ったので、早速申し込んでおいた。6回までは日帰りのバスツアーだったが、7回以降は福島以北と遠くなるので泊まりがけとなる。今回は10日に東北新幹線で郡山まで行き、周辺をバスで巡って芭蕉も浸かったといわれる飯坂温泉に泊まり、翌日も古跡を訪ねて郡山から新幹線で帰ってくる旅程である。

 「おくのほそ道」本文に従えば、前回の白河の関と須賀川から「安積沼」「信夫の里」「佐藤庄司の旧跡」「飯塚」まであたりで、「笠島」「武隈」以降は5月になるらしい。4月5月と2か月分を払い込んで、その日が来るのを楽しみに待っていたが、孫8号の出産が旅行日あたりになりそうなので、キャンセル料を払って断念した。誰かを誘って参加することも考えたが、知り合いとはいえ難病患者の世話を他人に任せてまで行きたいの と女房の顔に書いてあるので諦めた。結果はズバリ、10日の夜に無事男児が誕生した。

Photo 「春近し」折戸和人 第52回示現会展(1999)佳作賞 奥の細道の旅は歌枕を訪ねる旅でもあった。安積山は白河の関、阿武隈川、信夫、安達が原とともに福島の著名な歌枕で、古典や故事に通じていた芭蕉は、この旅に出る直前 弟子に出した手紙の中で
 「弥生に至り、待ちわび候。塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより、北の国にめぐり、秋の初め、冬までは みの、おはりへ出候」
と書いているという。本文にも
「沼を尋ね、人に問ひ、『かつみかつみ』と尋ねありきて、日は山の端にかかりぬ」
とあり、陸奥の配所で端午の節句を迎えた藤中将実方が、菖蒲の代えて軒に葺かせた(無名抄・鴨長明)故事を偲びたかったのであろう。

 曽良の旅日記によれば、郡山に泊まったのが4月29日、福島5月1日、飯坂同2日だから、丁度そんな時期でもあったのだろう。勿論旧暦だが、大垣でこの旅を終えたのは8月の末か9月の初めとされているから、ほぼ予定通のりの日程で目的地に到着したことになる。

 こんなことはツアーに参加すれば、講師が資料とともに教えてくれるから調べる必要「もないのだが、ツアーは毎月続くから先へ先へと旅は進んでしまい、今回の分を埋めるのがいつになるか判らない。とりあえず拙文で埋めておき、もしかして来られたならば差し替えたいと思っている。

そんなわけで、ここの部分にある句を載せておく。
 信夫の里     早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(すり)
佐藤庄司の古跡  笈(おい)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 紙幟

*第7回行程  鬼婆伝説残る安達ヶ原・黒塚・観世寺より国見

第1日 東京発<東北新幹線>=郡山 (バス)二本松・亀谷観音堂(句碑)-安達ヶ原ふるさと村・・・黒塚・観世寺(鬼婆の岩屋と伝わる)-文知摺観音堂ー月の輪の渡し跡ー飯坂温泉泊(プラザホテル吾妻)
第2日 飯坂温泉・・・鯖湖湯ー大鳥城跡ー医王寺(芭蕉句碑)ー桑折・旧伊達郡役所跡(芭蕉像)・・・法圓寺(東北最古の田植塚」)-国見・伊達の大木戸ー阿津賀志山防塁跡ー郡山=<東北新幹線>東京   (・・・徒歩 -バス =JR)

 
 

2012年4月 7日 (土)

(428)リハビリ

 今年に入って月曜はシルバートレーニングスタジオでストレッチ、水曜は保健所で機能訓練、金曜は指圧と真面目にリハビリを続けてきたが、4月から「早稲田イーライフ浅草橋」というところで介護予防に特化したデイサービスを受けることになった。“筋力向上”“転倒予防”が目的で、マシンを使ってトレーニングを行う。

44 神田明神の桜 4月4日 介護保険・要支援1・2の人が対象で、早稲田大学エルダリーヘルス研究所で研究された介護予防プログラムや「貯筋運動」を実践している とカタログに書いてあった。散歩は相変わらず続けているが、最近右足と左足の筋力に差が出てバランスが悪くなり疲れるようになった。高齢者安心センターでお世話になっている担当の「Kさん」からすすめられていたことと、先日のさくらコンサートで、15分ぐらいの演奏時間なのに太腿に張りを覚えたのがきっかけで、ここに行ってみようかという気になった。

 エルダリーヘルス研究所は所沢キャンパスにあるらしく、多くの教員及び外部講師が参加している。ネットで調べたところ基本理念は
「介護予防に関する諸問題の解決を目的とし、科学的根拠に基づいた介護予防プログラムを研究・開発し、社会に貢献することを目指している」とあった。

442jpg 神田明神の桜 4月4日 週1回送迎つきで約2時間の運動を指導してくれて費用は月額約5000円、効果が出れば費用などは安いものだが良く考えてみると、介護保険の本人負担分は1割で、あとの9割は区の負担だから、私のような者が増えると区に大変な迷惑をかける。3月から難病患者福祉手当と福祉タクシー券が区から支給されるようになって、「いよいよ俺も厄介な年よりになったのかな?」と落ち込みがちな毎日だが、嬉しいこともある。娘5号の出産が近くなってひと月前からウチに戻ってきていたが、桜の開花に合わせたように この数日中に孫8号の男児を出産する予定だ。減るのは淋しいが増えるのはいくつになっても嬉しいものだ。

2012年3月31日 (土)

(427)第5回さくらコンサート

Photo_2 第5回さくらコンサートは3月24日(土)に開かれた。前日の予報では午前中くもり、午後晴れ夕方からまた曇りとなっていたが、午後2時の開演時間には未だ小雨がぱらついていた。最近のNHKは気象情報といって天気予報とは言わないから、「「予報が外れた」と文句を言えないようになっているが、こうした呼び換えは何となく卑怯な感じがするのだが、それは私だけであろうか。

 そんなわけで出足は悪かったが次第にお客さんの数も増え、千代田区のさくら基金への贈呈式をするころにはすっかり晴れ上がっていた。会場での募金額はシニア会のメンバーからの拠出額も含めて135,560円、打ち上げ会の席で特別出演したアンサンブル・フィオレッティのメンバーからお預かりした1万円を加えて14万5560円にもなった。3回分の累計が約37万円だから、優に50万を超えたことになる。去年も3月26日に開く予定で準備をすすめていたのだが、東日本大震災のため中止になったので第4回は欠番とした。

Photo_3 さくら基金への寄付額についてはその多少を問題にするのではなく、後期高齢者の集団が趣味を生かして自分らも楽しみながら、若い者を巻き込んで募金活動という社会貢献を毎年続けるということに意義があるので、金額はその結果として生じてくるものだ。それよりも、コンサートのために看板の製作、下足番、ドアボーイ、受付、司会者、会場設営、同じく片つけ等々下働きを全て引き受けてくれた昌平コミュスクの方々には頭が下がる。有難う。

 一番若い人が70歳の合唱団だから指揮者の苦労は並大抵ではない。なまじ楽譜が読めるから 楽譜から眼が離れず、自分勝手に歌う傾向があり毎度「揃えて!」と注意を受ける。私も左手が不自由になったので右手だけではページが繰れず、仕方なし音階は出来るだけ覚えて、自分用に工夫した歌詞カードを作り対処しているが、いざ本番となると指揮者の要求通りには中々歌えない。

Photo 会は地元の混声合唱団、昌平コールアブサンズの演奏から始まり、第2ステージはシニア会と昌平グリーの合同演奏でアカペラ(無伴奏)曲3曲を歌った。昌平グりーは混声合唱団の男声パート11名だけなので、たまには多人数で歌う楽しみを味あわせてやろうと合同演奏を提案した。地元の人が多いので最前列に並んで頂いたところ、若い方が多いせいか背が高く、後列のシニア会は見えなくなってしまったのには驚いた。

 第3ステージはシニア会単独で、西岡瞳編曲による「美空ひばり名曲集」と題して「愛燦々;東京キッド;津軽のふるさと;お祭りマンボ;川の流れのように」の5曲を歌った。アンコールの用意もなかったが声もかからず丁度良かった。10分の休憩を挟んでさくら基金への贈呈式があり、その後特別出演アンサンブル・フィオレッティの演奏があった。混声合唱、男声合唱と続いてプロの女声合唱で締めたコーラスの演奏会は予定通り4時に終演した。

 打ち上げ会は近くの中華飯店を貸切にして開かれた。特別出演のフィオレッティさんや、亡くなられた先輩の未亡人方をお招きして、しばし歓談の時を過ごし6時半頃お開きとなった。その後、会場の都合で一緒の打ち上げが出来なかった混声合唱団や下働きをしてくれた人たちの会場に寄り、お礼を述べ寸志を置いて帰って来たが疲れたのか、感興が醒めなかったのかその夜の眠りは浅かった。

 例年さくらコンサートが開かれる頃は、童夢館の窓から咲き始めた桜を眺める事が出来るのだが、今年の冬は長く開花が遅れている。この数日やっと暖かい日が続くようになって、早咲きの桜は咲き始めたようだが東京の開花宣言はこの週末頃にだされるのかもしれない。今は白木蓮が綺麗だ。

2012年3月24日 (土)

(426)さくら咲く

 今年の冬は長引いて梅の開花が遅れ、湯島天神の梅まつりも花が咲いていない時期の催行となってしまった。だが 沈丁花の香りとともに、選抜高校野球の開幕が近くなると、流石に桜の開花は何時だろうか?と気になってくる。一足先に河津の桜でも見ようかと出かけてみた。

Photo シニア会の練習を中退して湯河原までゆき、千代田荘に一泊し翌11日河津へ向かった。宿を出る頃には雨も上がり、電車に乗っている間に青空も見られるようになった。桜の花も陽を浴びて青空をバックにしてこそその美しさが映える。お天気になって好運だった。伊豆急に乗っていた客の殆んどが河津で降りた。

 駅前からのお花見ロードは、花を待ちかねた人で一杯。露店がキリなく並んで、呼び込みの声もやかましい。このところぐずついた天気が続き、客足も少なかったのだろうから、今日はかきいれで気合いが入っている。イベントも10日までの筈が一週間延ばしたそうだ。満開の桜を見るよりも、行き交う人びとにぶつからないように歩くのが疲れる。2時46分サイレンが鳴った。その前にアナウンスがあって、東日本大震災の被災者の霊に黙祷するよう呼び掛けていた。

Photo_2 下田や蓮台寺には何度か来ているが、河津に来たのは学生時代の1回だけなので懐かしかった。その時は今年50周年を迎えた伊豆急は未だなくて、バスを乗りついでここまでやって来た。大学2年の期末に、九州は博多の友達を訪ねた折に知り合ったK君を案内して、修善寺から天城峠を越え蓮台寺に泊まり、翌日 東洋一といわれる大噴湯を見物に来たのだった。川端康成の「伊豆の踊り子」がよく読まれていた頃だった。写真には可愛い踊り子さんと「少年 老(おい)やすく、学なりがたし」と諦めきった老人が写っている。

 さて 今日は第5回さくらコンサートが午後2時から昌平童夢館で開かれる。毎年3月の最終土曜日と決めて、去年も26日に実施する予定だったが、11日に起きた大震災のため中止となった。あれから1年、月日のたつのは早い。だが 復旧の足取りは遅々として進んでないように見える。被災した方々には、季節だけでも一日も早い春の訪れが待たれる。

4263 さくらコンサートは、シニア会の主催による千代田区のさくら基金のためのチャリティコンサートなので、シニア会の男声合唱を聴いて戴くのがメーンだが、毎回ゲストを招いて楽しんで戴いている。今年は宇野功芳指揮する“アンサンブル・フィオレッティ”に特別出演をお願いした。指揮者の宇野君は音楽評論家としても高名だが、実は私と中学1年からの同級生で、戦後の中学3年生から合唱団で共に歌った仲間でもある。初めて歌った曲は「希望のささやき」という曲だった。彼女らのレパートリーにこの曲があったので、今日歌って戴くことにしている。

 さくらコンサートは毎年3月の最終土曜日に開催してきた。年により開花の時期が違っているが、概ねお花見を兼ねたコンサートであったのだけれど、今年は4月の入学式のころに延びるらしい。新入社員の初仕事となるのだろう。

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